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 朝食を済ませても出発まではまだたっぷり1時間ある。そこで部屋には戻らずにホテル周辺を散策することにした。ホテルを出るとすぐ目の前の小高い山の上にブラチスラヴァ城がある。ドナウ河畔から見るとどの様な場所にこの城が造られたか良く分かる。ここへは後ほど行く予定になっている。ドナウ河の中ほどに大きな船が停泊している。「ANTON GOTTEN REISEN」との文字が読み取れるが船名だろうか?クルーズ船なのか船内で朝食をとっている様子が見える。船首が下流の方を向いているので、おそらくこれからハンガリーへ向かうと思われる。聖マルティン協会の高い塔を下から見上げパンスカー通りからリバールスカ・ブラーナ広場に出る。広場に彫像があり台座に『HVIEZDOSLAV』と銘があるが、この時は何と読むのか分からなかった。この彫像のところから引き返してホテルに戻る。
 現地ガイドのイングリッドさんとホテルで合流しバスでブラチスラヴァ城へ向かう。ホテルのすぐ目の前に見えるが、一方通行の為かぐるぐる回りながら坂を上がって行くとほどなくブラチスラヴァ城へ到着。ブラチスラヴァ城は四角の建物の四隅に高い塔があり、その独特の風貌から『ひっくり返したテーブル』の愛称で親しまれている。城の反対側には1999年から使用されているスロヴァキア議会がある。階段上部にある女性像の両手にスロヴァキアの国の木”菩提樹”の枝がある。

 
ブラチスラヴァの成り立ちははっきりとは分からないが、ローマ帝国がこのあたり一帯を支配していた頃にゲルマン民族が南下しそれに対抗する為にローマ人が軍事拠点を築いたとのこと。12世紀には既に石造りのロマネスク様式の城があったらしい。その後ハンガリー王国の支配に移り1431年から1434年にかけてゴシック様式に改築された。ハンガリー王国がオスマントルコ帝国の勢力拡大によりその領土が現在のスロヴァキアに限定され、1536年ブラチスラヴァはハンガリー王国の首都になる。その後1635年から1646年にかけて防衛体制が強化され現在見られる様な外観になった。

 ハプスブルク家の支配下にあった18世紀にはバロック式に改築され女帝マリア・テレジアの居城となり黄金時代を迎えた。しかしながら彼女の死後息子ヨーゼフU世が政治・文化の中心をウイーン、ブダペストに移し、ブラチスラヴァは衰退の一途を辿ることになった。1811年の大火事で廃墟と化しそのまま長期間放置され、1993年スロヴァキア独立後ようやく復旧され
現在は「歴史博物館」、「音楽博物館」として利用されている。

 城門をくぐりブラチスラヴァの街が一望に見渡せる場所へ・・・。ドナウ河、ドナウ河にかかる展望台展望台、それに宿泊したホテルも眼下に見える。昨年ドナウ河はクルーズ船に乗った時も感じたがさすが大河の風格がある。城の中庭を抜けて博物館へ向かう。

 「歴史博物館」には
太古の昔からの出土品などが展示されている。2万4800年前の大きさ10Cmほどのヴィーナス像を見たが、あまりにも古すぎて全くピンと来ないが・・・。 「2万4800年前?いったいいつ頃?」と思わず考え込んでしまった。「音楽博物館」と「ホッケーの殿堂」も併設されているが今回は見学しなかった。
 博物館を出て暫く城内を歩きまたまた眺望の良い場所に出る。左手には聖マルティン教会が見える。右下には15世紀に建てられたゴシック様式のジグモント門が見える。ドナウ河の対岸奥に小高い丘陵が見えるが、そのあたりはオーストリア・・・ウイーンからブラチスラヴァまでは僅か65Kmほどと聞いていたがなるほどと納得した。

 暫く城内を歩くと庭の中に
聖アルジュベータ(エリザベート)像がある。エリザベートと言ってもハプスブルクのラストエンペラーフランツ・ヨーゼフT世の王妃エリザベートとは異なる。スロヴァキアの人々からアルジュベータは親しまれている。彼女にまつわる逸話は『バラの奇跡』として現在も語り継がれている。

 『バラの奇跡』とは・・・13世紀初めハンガリー王エンドレU世の娘アルジュベータはドイツ貴族と結婚した。彼女は貧しい人々にパンを施していたが、夫がその行為を嫌っていたので彼女は隠れて慈善行為を行なっていたそうだ。そのパンが彼女の手を離れると、何と驚いたことに”バラの花”に変身!した。

 バスでホテルに戻りトイレ休憩後、今度は徒歩で旧市街に向かう。バールスカ・ブラーナ広場を歩いていると先ほどの彫像の傍を通りかかった。イングリッドさんに読み方を尋ねる。 ヴィエズドスラヴ・・・イングリッドさんから何をした人物かその時説明を受けたが、残念ながら(脳細胞活動不良の為)記憶の片隅にも残っていない。

 広場周辺にはドイツ大使館、アメリカ大使館、チェコ大使館がある。アメリカ大使館の前は特に厳重な警戒で常に誰かが監視している。周辺はスリヴァキアの警官が常にパトロールしている。建物正面には高さ2mほどの高いフェンスが2重に張り巡らされ容易に近づけない様になっていた。ここの写真を撮ろうとも考えたが、うっかりCameraを向けると警官、またはアメリカの警備兵に制止されそうな感じがしたのでさすがに自重した。

 広場の突当たりには19世紀末ネオ・ゴシック様式で建てられた
スロヴァキア国立劇場がある。新しい感じはするが威風堂々とした威厳がある。ガイドブックによるとここのオペラは100〜185スロヴァキア・コルナ(1スロヴァキア・コルナ≒3.5円)で見ることができる。何と言う安さ・・・物価水準が日本と比べて格段に低いことを考慮してもとにかく安い。

 スロヴァキア国立劇場の近くに『ペスト柱』が建てられている。14世紀頃にEuropeでは黒死病(ペスト)が大流行して大勢の死者が出ている。ペストの流行が収まった後に死者への弔いと神への感謝の気持ちから造られたのだろう。今後同様の『ペスト柱』をチェコの各地で見ることになる。

 リヴァールスカ・ブラーナ通りを歩いていると、道路に何やら怪しげなオブジェがあり周りで大勢の人が面白そうに見ている。中には傍に並んで記念写真を撮る人もいる。よく見るとそれは”マンホールから胸から上を出して歩いている人を楽しそう見つめている男”の彫刻ではないか。
この彫刻は『チェルミ』と呼ばれ、スロヴァキア語で「覗き見する人」の意味。これはまさに『Peeping Tom』・・・のぞき屋トムと言ったところ。市内のあちらこちらにこの様な人を喰った様なオブジェがいくつも見られた。ユーモア精神の表われと見た。

 フラヴネー広場には日本大使館、ギリシャ大使館、フランス大使館などが並んでいる。ここにはいろいろな建築様式で建てられた「
旧市庁舎」、1572年に”町の守護者”として建てられた「ローランド騎士の噴水」がある。近くにはオーストリア大使館があるが、ここは18世紀に建てられたこの館は元々貴族の住まいで別名「モーツァルトの家」と呼ばれている。 1762年モーツァルト一家がヨーロッパ各地を演奏旅行した際にブラチスラヴァに立ち寄り、当時6歳の少年モーツァルトがピアノ演奏している。この旅行の時ウイーンのシェーンブルン宮殿にて女帝マリア・テレジアの御前演奏を行ない、その時わざと倒れたモーツァルトを助け起こしたマリー・アントワネットに「お嫁さんにしてあげる。」と言ったエピソードは有名。
 次に聖マルティン教会に向かう。14世紀初めに初期ロマネスク様式で建てられたこの教会は85mの尖塔があり見た目にもすっきりとして美しい。木製の祭壇は16世紀ルネサンス様式、尖塔は後日ゴシック様式で再建された時に作られた。ハンガリー王国の首都であった1563年〜1830年にかけて、19回の戴冠式(11人の国王、8人の女王)がこの教会で執り行われた。尖塔の最先端に1.5mの王冠のコピーがある。先ほどブラチスラヴァ城から旧市街を眺めた時にイングリッドさんから説明を受けた。今年4月に亡くなった前ローマ法王ヨハネ・パウロU世(ヤン・パーヴェルU世)によるミサが1995年に行なわれた。またここではかつてリストやベートヴェンが指揮をしたことがある。
 狭く入り組んだ石畳の道を歩いてミハエル門へ向かう。石畳のところどころに王冠のマークが見られるが、そこを戴冠式のパレードが通ったことを示している。司祭通りを歩いているとある建物から背の高いハンサムな修道士が出てきた。そこは修道士が学ぶ学校であり、道路を挟んで反対側にある学生寮(昔は司教の館)へ昼食で戻るところらしい。学生寮のフェンスには真紅なバラが咲いていた。余談だが誰かがイングリッドさんを通じて写真を撮らせて欲しいとハンサムな修道士に頼んだが断られた。進行方向には15世紀初めに建てられた聖クララ教会のゴシック様式の尖塔が見える。聖クララ教会越しにブラチスラヴァ城が見える絶好の撮影ポイントで皆さん写真を撮った。

 ミハルスカー通りに出ると突当たりに高さ50mの
ミハエル門が見える。ブラチスラヴァにはかつて4つの城門があったが唯一残っている。近づいて上を見上げるとバルコニーには人の姿がある。そこは展望台になっていて素晴らしい眺望が楽しめる。高いところに上がりたい性分の私なので自由行動があれば当然の如く上がっていたはず・・・。

 
ヴェリキ・フランチスカン (大フランチェスコ会の意)で昼食をとる。メインは『チキンと野菜のパプリカソース ポテトパンケーキ添え』、(Europeに来るといつも思うが)とにかくVolumeがすごい。スロヴァキアワインを飲んで気分が良くなったところでイングリッドさんと別れ、14時20分バスで次の目的地チェコのオロモウツへ向かう。

 15時35分頃チェコ国境へ。ここにも一応検問所はあるが全く形式的な入国審査で、検査官の問いかけに「ヤーパン」と答えるだけでOK。いずれここも検問所がなくなるだろう。夕方16時40分今日宿泊のホテル 
GEMO へ到着。

 夕食まで時間があるのでオロモウツの中心部を一回りした。一回りと言っても小さな街なのですぐに一巡りできる。明日見るところを事前に予行演習した様なもの。ただ今日は夕陽で明日は朝日、光の加減で微妙に異なって見えることだろう。ホテルでの夕食後Iさんと夜の散歩に出たが、ウイーンとローテンブルクなどとは異なりほとんど人通りがない。少々危険な感じがするので夜の散歩はすべきではない。

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