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 昨夜激しい雷雨があり心配していたが、朝起きて外を眺めると雲ってはいるものの何とかなりそう・・・しかしながらいつ降りだしてもおかしくない気配で傘は手離せない。旅も5日目を迎えて少々疲れが出てきた頃で、朝の散歩もせず朝食後部屋でのんびり過ごした。9時に昨日と同じガイドのミヒャエラさんとホテルで合流し街中散策に出かけた。

 
チェスキー・クルムロフはプラハの南約140Km、オーストリア国境にほど近いところに位置する。ヴルダヴァ河が何度も蛇行しながら流れている場所にある。『クルムロフ』とはドイツ語で”曲がった川辺の未開墾の草地”を意味し、15世紀頃に”チェコの”を意味する『チェスキー』が合体して町の名前となった。 中世の面影を色濃く残すこの地域は1992年世界遺産に登録された。2002年8月Europeを襲った大洪水はこの地にも及び大きな被害にあったが、ほとんど修復されて痕跡はどこにも見当たらない。

 紀元前6000〜5000年前にこの地に初めて定住した跡が確認されている。13世紀南ボヘミアの貴族ヴィートテク家がこの地に居住したとの記録が残っている。1302年ロジェンベルク家の支配となりその支配は1601年まで続いた。16世紀には現在に残るルネサンス様式の街並みが整い大いに繁栄した。1601年ロジェンベルク家の最後の統治者ペトリ・ヴォクは、ボヘミア王でもあったハプスブルク家の皇帝ルドルフU世に売却してしまう。以降20世紀初めまでハプスブルク家の統治下にあった。1622年ハプスブルク家の皇帝フェルディナンドU世はエッケンベルク家にこの地を与え、1719年エッケンベルク家の血筋が断絶するまで3代に渡り支配する。その後シュヴァルツェンベルク家に支配が移ったが、近代化の波に取り残されていつしか寂れてしまった。ところが近代化とは無縁が故に、中世ルネサンスの街並みがほぼ当時のまま保存されて現在に至る。

 ホテルのすぐ近くに
スヴォルノスティ(”公正な”の意)広場がある。広場の中心に18世紀にペスト克服を記念して建てられた『聖母マリアと聖人の像』がある。Europe全域で猛威を振るった痕跡がここにも残っている。Europe全体でペストでいったいどの位の人が犠牲になったのだろうか?

 狭い路地を抜け1586年から1588年にかけて建てられイエズス会の学生寮として使われていた
ホテルルージェの前に出る。この建物の壁は漆喰を引っ掻いたり彫って装飾を施したモチーフで飾られたスグラフィート技法でできており、その精巧さ故に見る者は見事に錯覚に陥ってしまう。。このホテルの中庭の先にあるバルコニーからの眺めが美しい。真下にはブルダヴァ河がありそこに写る家々と木々が美しい。反対側に目を移すと、旧市街の街並み、チェスキークルムロフ城が見える。ルージェの隣に尖塔が目立つ聖ヴィート教会がある。14世紀にゴシック様式で創建され、16世紀にはロマネスク様式、18世紀にはバロック様式に改築されている。ちなみに内部の壁画はゴシック様式で描かれ、祭壇はバロック様式で作られている。
 ヴルダヴァ河にかかる橋を渡り、チェスキー・クルムロフ城へ向かう。ボヘミア地方ではプラハ城に次ぐ規模を有する。ブルダヴァ河の岸辺に建つこの城は自然を利用した要塞であり、見る人を圧倒する迫力と美しさが魅力の源と言える。少なくともチェスキー・クルムロフとプラハを訪れなければチェコに来たとは言えないのではないだろうか?

 1253年チェスキー・クルムロフ城がヴィーテク家の居城だった頃は小規模だったらしい。その後ロジェンベルク家の統治下で増改築が繰り返され、現在に見られる大規模な城郭に変貌を遂げた。この城の最も古い箇所はフラーデクと呼ばれる。また古い城壁の痕跡が残されていて、ガラス越しにその姿を見ることができる様になっている。14世紀にはルネサンス様式、17〜18世紀にはバロック様式で増築されて中央Europe最大の複合建築と言われている。それぞれの時代の様式の特徴が生かされ、かつ見事に融和している。

 城のガイドカタリーナさんの案内で城内を見学する。13世紀に建てられたチャペル、アンナ・マリアの寝室、バロック・サロン、紋章の間などを1時間かけてゆっくり見て回った。
ロココ調のくるみの木に金箔を貼り付けた立派なソリがあり、2頭の馬に引かれて城内の移動などに実際に使っていたそうだ。その近くには城の窓からの景色が素晴らしいポイントがあり、城内の写真撮影は不可だがそこでは写真撮影がOK。窓からは旧市街、眼下にブルダヴァ河、橋のすぐ右手には宿泊しているホテル、旧市街が一望に見渡せる。この城が高台にあることを実感させられる。

 もう一つ目を奪われたのが1638年ローマで製作された
黄金の馬車、この金ピカの豪華な馬車はたった1度しか使われていない。エッケンベルク家の領主ヤン・アントニーノが時のローマ法王ウルバン[世に謁見する為にローマを訪れた。6頭立ての黄金の馬車には法王への貢物がぎっしり積まれていたと言う。ハプスブルク家の皇帝フェルディナンドV世からある命がエッケンベルク家に下され、ヤン・アントニーノがローマに出向いた。「ハプスブルク家は次期ローマ法王の座を狙い、エッケンベルク家に命じてローマ法王に”袖の下”を渡したが目的は達せられなかった」などの諸説があるが真偽のほどは定かではない。 (詳しくはこちら(英語版) を参照されたい。) 

 最後にマスカレード・ホール(仮面舞踏会の間)を見学した。ここには騙し絵や画家自身の似顔絵などが描かれていて面白い。1組前の客を案内しているガイドが中世の可愛らしい服装を身に纏っている。カタリーナさんに尋ねると「明日お祭りがあるので着ている。」そうだ。そこでカタリーナさんに「あなたも着ないの?」と尋ねると午後には着替えるとか・・・。彼女の中世の服装を纏った姿を見ることができなくて残念!さぞや可愛らしく綺麗で素敵だったと思われる。ここで解散、この後は自由行動・・・。

 城の西側にかかる
プラーシュティ橋から下を見ると吸い込まれそうな感じがする。後に下から見上げたが改めてその高さを実感した。その時はよく確かめなかったのでそこから引き返したが、そのまま進めば「城の庭園」に行くことが出来る。後でわざわざ大変な思いをして坂道を上がったことを考えれば、この時に「庭の庭園」を見ておけば楽だったが・・・。

 プラーシュティ橋から来た方へ引き返し、「
城の塔」に上がることにする。「城の塔」は13世紀前半に質素なゴシック様式で建てられたが、1580年〜1590年にルネサンス様式に改修された。壁面は彫られている様に見えるが、そこには騙し絵が描かれている。このあたりにも遊び心がよく表われている。この塔は街のどこからもよく見えて、チェスキー・クルムロフのシンボルになっている。

 入口で35チェココルナ支払い、急な狭い階段を上がって行く。場所によってはすれ違うことができない。展望台は狭くすぐにいっぱいになってしまいそう・・・。雨が降ってきて少々霞んではいるが、屋根付き柱廓からの眺めは素晴らしい。眼下にはブルダヴァ河と赤い屋根の家々が並び遠くには緑の大地が広がる。ここから見るとヴルダヴァ河が大きくUの字形にうねっているのがよく分かる。それに何と凄い場所に城が築かれているのかと感心する。うっかりすると行き過ぎてしまいそうだが、
チェスキー・クルムロフに行かれる方はぜひともこの塔からの眺望を楽しんで頂きたい

 スヴォルノスティ広場まで戻り、レストランPETR VOKで昼食をとる。ピザを頼んだが、恐らく大きくて3人で1枚で充分と考えて正解だった。Europeはどこでもそうだが、日本の感覚で頼んでしまうと多過ぎて食べきれない可能性があるので要注意。

 ところでチェスキー・クルムロフでチェコに来てから2度目の両替をした。Iさんが前日ホテルのフロントですぐ近くの両替所が良いと聞いていた。そこで1万円をチェココルナに替えたところ、最初にオロモウツのホテルで両替した時に比べると妙に少ない。いぶかしく思いその後インフォーメションセンター内の両替所で1万円両替するとオロモウツのホテルに近い額のチェココルナが得られた。そこでは”Commision 2%”と明示してあった。

 そこでハタと気がついた。ガイドブックには「
店頭に高いレートや”Commision 0%”などと掲げていても、実際には手取りがかなり少ない詐欺まがいの私営両替所があるので要注」と書いてあったのを思い出した。少々気がつくのが遅かった・・・。よくよく考えればCommision 0%であるはずがない。それでは両替商の儲けがない。そんな商売をやる馬鹿はどこにもいない。

 実際その両替所の店頭には”100 YEN 22.XXチェココルナ”と表示され、更にご丁寧にでかでかと”Commision 0%!”と掲げられていた。Iさんも「その店で両替して損した。」と憤慨していた。Iさんは後で店に抗議しに行ったが、店員曰く「そこにちゃんと書いてある。」・・・。店内には22.XXはチェココルナを日本円に替える時のレートで、17.37が日本円をチェココルナに替える時のレートが記されている。店の外には22.XXの表示しかなかったが・・・。これでは巧妙な詐欺、まんまと騙されてしまう。インチキだと文句をつけられてもちゃんと対応が考えらている。Iさんは更に食い下がり「チェココルナを日本円に替えて欲しい。」と要求したが拒否された。

 外国で両替する時には
”Commision 0%!”の表示があればまずはインチキと思って間違いない。どうしても両替をする必要がある時にはインフォメーションセンター、銀行、(ホテル)などの公的なところで両替するのがよい。私的な両替所は危険なので利用しない方がよいが、どうしても利用しなければならない時は事前に手取りを確認して頂きたい。

 昼食後入り組んだ狭い路地を巡り、
エゴン・シーレ文化センターへ。シュロイカー通りの古い醸造所の中にあるが、特に目立つ看板がある訳けでもなく分かりにくいところにある。エゴン・シーレの母親がチェスキー・クルムロフ生まれと言うこともあり、エゴン・シーレはここを第二の故郷と愛ししばしば滞在している。約80ほどの作品、写真、直筆の手紙、更にはデスマスクが展示されている。

 地域博物館の前を通りヴルダヴァ河にかかる橋を渡り旧市街の外にあるスーパーに買出しに行く。今日は夕食がないので調達しておく必要がある。連日のご馳走で少々胃腸が疲れているので、パン、サラダ、果物などできるだけ軽い物で済ませることにした。一旦16時頃ホテルに戻る。今夜19時からチャペル・コンサートを聴く予定になっているが、まだ時間がたっぷりあるので「城の庭園」まで出かけることにした。

 「
城の庭園」は方角は分かるものの、どこから行けばよいのかよく分からない。取り敢えずプラーシュティ橋の方向へ行き、工事をしている男性に尋ねると「この道を行けばよい。」と指差しで教えてくれた。坂道が結構きつく足が痛い。こんなことなら先ほどプラーシュティ橋を通りそのまま行けばずっと楽だったが・・・。庭園入口の少し手前からの眺めが美しく、それまでの疲れが吹っ飛んでしまう。

 広大なバロック式庭園に足を踏み入れるとまず噴水が目に入る。緑の木々の間を暫く歩くとピンクの建物と観客席がある。そこで何か公演があるらしく準備作業が行なわれていた。とにかく奥行きが深く全部歩いたらどの位かかるのかまるで見当がつかない。

 再びプラーシュティ橋を渡り逆コースを歩き城から出ると、大勢の人が城壁の下を覗いている。「何だろう?」と下を覗きこむとそこには
熊が2頭いる。18世紀初めからずっと飼われている。何故ここに熊が飼われているのだろうか?何らかの関係で熊を守護神として飼っている?城内見学の時にガイドのカタリーナさんから熊について何らかの説明を聞いた様な気もするが記憶が定かではない。

 ホテルの直前で急に雨に降られあわててホテルに戻る。19時からのコンサートに間に合う様にホテルを出る。スヴォルノスティ広場に面するホテルオールドイン内の小さなチャペルが会場・・・通常はホテル内の結婚式場として使われている。チケットは午後の自由行動の間にインフォーメーションセンターで購入、料金は370チェココルナ。
ヴィオリン、フルート、チェロのトリオハイドン、コレルリ、モーツァルト、シューベルトなどの楽曲構成で、約1時間のコンサートは終了した。最前列に座っていたのでフルート奏者の息使いまではっきりと耳に入った。最後までリラックスした雰囲気で良い演奏を心地よく聴くことができ良い気分で会場を後にした。
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