直線上に配置
 駐車場が旧市街の外にあり少々離れているので、少々早目に昨日同様Taxiでバスの待つ駐車場へ向かう。そこで久しぶりに?ヨゼフさんと再会し、バスに乗り込み次の目的地クトナーホラへ向かう。チェコに入ってからずっと同じような風景・・・菜の花畑、麦畑、牧草地などが延々と続き、高低差があまりないのでかなり遠くまで見渡せる。ところどころにポピーの赤い花が交じっている。Iさんによるとポピーは有害物質を含んでいるので、ポピーに侵略された畑の産物はダメになると言っていたが、事実かどうかは確認はしていない。

 
クトナー・ホラはプラハの東約60Kmに位置する小さな町で、かつて13世紀後半に良質な銀が発見され大いに繁栄した。15〜16世紀にはボヘミア最大の都市に発展し、しばしばボヘミア王がこの地に滞在することもあった。王宮内に王立造幣局が設立され、プラハのグロシュ銀貨が鋳造され中央Europeに広く流通した。それによりこの町は裕福になり栄華を極めた。また国王の懐には利益の1/8が入り莫大な富をもたらした。しかしながら16世紀には銀が枯渇して町は急速に衰退し、30年戦争を経て1726年造幣局は閉鎖された。1995年この町は世界遺産に登録された。

 チェスキー・クルムロフからクトナー・ホラまでは160Kmほどで約2時間半かかり、到着した時には12時半を過ぎてお腹も空いていた。駐車場のすぐ傍にあるレストラン
スタラファラ(”僧の古い家”の意)で昼食をとる。この他に大勢客が入るレストランがないのか、超満員で同室にはアジア系のツアー客もおり騒々しかった。できれば静かな雰囲気の場所でゆっくりと食事するのが望ましい。

 レストラン入口でガイドのヘレナさんと合流し街中観光に出かける。ところでヘレナさんの日本語がどうにも分かりにくくて聞いていてとても疲れた。ヘレナさんは日本語による表現力が不足している。それに言葉の使い方がおかしいところもあり、助詞の使い方もおかしい。それで言っていることが伝わりにくかったと思われる。

 街中に入ると
18世紀のバロック様式、19世紀のアール・ヌーヴォーの美しい家々が目に入る。14世紀に建てられ1489年に後期ゴシック様式に改築された石の家(現在は博物館)のファサードのレリーフは精巧で美しい。古く美しい街並みを各所で見て来たが、保存して行くのは大変なことと思う。行政と住民との協力がないとすぐに立ち行かなくなってしまう。どこぞの国の様に”口は出すが金は出さない”のでは困りもの・・・。小さな広場に出るとここにも『ペスト柱』・・・聖母マリアの柱像があり、多くの犠牲者が出たことが窺える。
 聖ヤコブ教会とイタリアン・コートの間に聖バルバラ大聖堂の美しい姿がよく見えるポイントがある。もろに逆光だがかえってシルエットの美しさが際立つ。聖バルバラ大聖堂へ行く途中にフラーデク鉱山博物館がある。フラーデクは”小さな城”を意味する。後期ゴシック様式の建物の中に博物館があり、銀採掘の様子や歴史を展示している。

 銀鉱山跡をガイド付きツアーで見学できるが、危険防止と汚れ防止の為ガイドと同じくヘルメットと白い(鉱山労働者)服を着て中に入る。鉱山跡を入る前にガイドから銀採掘の現場の状況、歴史などについて説明を受けた。鉱山跡に入る前に当時の採掘の様子を再現した洞窟を見る。そこには現場で働く労働者(坑夫)の人形があった。

 
15世紀には銀鉱山は深さ600m、全長100Kmに達していたとのこと。あまりの大きさにそう説明されてもピンと来ない。炭鉱も地中深く掘り進み落盤事故などの危険性があったのと同じ様に、この銀鉱山でもかなりの危険が伴ったと思われる。説明にはなかったが、恐らくかなりの数の犠牲者が出たのではないだろうか?

 銀鉱山跡に入る前に全員ヘルメットと白い服を着用する。その姿が何やら異様で、知らない人が見たらどう思うだろうかとふと可笑しくなった。狭い入口をくぐるとそこは真っ暗で手にしたずしりと重い電燈だけがたより。坑道は狭くやっと人が一人通ることができる位のスペースしかない。写真ではCameraのフラッシュで明るく見えるが、実際には真っ暗で結構怖い。毎日この様な場所で労働者はどんな思いで作業に従事していたのだろうか?見学コースでは深さ40mまでだが、最深の600mはどの様な世界なのか想像がつかない。坑道は足場が悪く板が敷かれているものの滑りやすく歩きにくい。実際私の前を歩いていた方がいきなり転倒したが、何事もなく事なきを得たのは幸いだった。
全長220mのコースを必死に歩いたので随分長い時間暗闇の中にいた様に思える

 次に見事な尖塔を有するゴシック様式の
聖バルバラ大聖堂へ向かう。聖バルバラとは坑夫の守護聖人のこと。資金調達はカトリック教会ではなく市民の手で賄われたが、その様な例はほとんどなく極めて珍しいとされる。この大聖堂建設は1388年に開始され、フス戦争や資金不足で幾多の中断を重ね1558年完成した。17世紀から18世紀にかけてバロック様式の改修が加わり現在の姿になっている。

 大聖堂の内部には18世紀の豪華な装飾のパイプオルガン、17世紀のイエズス会の説教壇、聖バルバラのフレスコ画、16世紀の貨幣鋳造職人の像それに鉱山の守護聖人にゆかりの教会らしく坑夫の像などがある。かつて銀の収益で繁栄した町の面影を残す如何にも豪華さに溢れている。

 パラツキー広場には
初代チェコ共和国マサリク大統領の像がある。第一次世界大戦後1918年それまでの長年のハプスブルク家の支配から解放され、チェコとスロヴァキアが合体しチェコスロヴァキア共和国が成立した。トマーシュ・マサリクは初代大統領に就任した。国民の信頼が厚く政治的手腕を発揮して国政を司ったが、国内にくすぶる民族問題を解決するには至らず健康上の理由で1935年大統領を辞任した。ナチスドイツ侵攻の前年1938年12月に肺炎でこの世を去った。ナチスドイツ支配による暗黒の時代を見ずして亡くなったのはマサリクにとって幸せだったのではないだろうか?

 
イタリアン・コートは元々ヴラシュスキー宮と言う王宮で、13世紀には王立造幣局がここに併設されている。それまで何種類もの貨幣が流通していたが、フィレンツェから専門家を招聘し改革を推進しプラハ・グロシュ銀貨を統一貨幣とした。イタリアン・コートの名の由来はここから来ている。1726年の王立造幣局が閉鎖され、それ以降軍の病院、小学校、そして現在は市庁舎として使われている。ここもガイド付きツアーで内部見学ができる。ここで鋳造された銀貨、ヴァーツラフW世の執務室、聖ヴァーツラフを祭った礼拝堂、チャペルなどを見ることができる。
 17時少し前にバスに乗り込み、最終目的地プラハへ向かう。Iさんが何度も携帯でTelしている。ガイドを斡旋するAgencyとガイドの件で掛け合っていた。Iさんは英語が堪能で面倒な交渉ができるとは実に羨ましい。結局ハイ・シーズンで他の日本語ガイドへの変更は無理、ただヘレナさんの英語が堪能と言うことなので翌日は英語でのガイドを依頼することにした。

 約1時間ほどで共和国広場近くマサリク駅の傍にあるホテル 
RENAISSANCE に到着。旧市街広場に近く足回りが良く、どこにでも行き易い場所にある。ホテルの利便性の良さは客にとっては実にありがたい。19時45分から宴会場「ムハ」で夕食をとる。会場には大きな円卓が2つあったが、全員座ってからある偶然に気がついた。明日の夜は9人がオペラへ、残り9人が教会コンサートへ行くことになっている。別に示し合わせた訳けではないが、その9人づつがたまたま同じテーブルに座った。18人から無作為に9人を抽出する組み合せは43万7580通りあり、今回の様になる確率は0.000023%と極めて低い。皆さん「こんなこともある!」と一様に驚いていた。

 この日同じホテルに同じ旅行社の別コースのツアー客が泊まっていた。他コースの添乗員に「あら〜、○○さんおひさしぶり。」と声をかけた方がいる。以前利用した時もそうだったが、この旅行社はリピート、所謂”常連さん”が多い。ところで添乗員間では誰がいつどこへ行くのかはあまり知らないらしく、やはりその偶然にはお互い顔を合わせて驚いていた。
(注)画像をクリックすると、
   大きな画像が表示されます。
オーストリア旅行記

トップ アイコン
前のページへ

トップ アイコン
サイトトップへ

トップ アイコン
チェコトップヘ

直線上に配置

トップ アイコン
次のページへ