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 いよいよ今日のメイン、プラハ城内に入る。3年前に訪れた時には忙しく駆け抜けた感じで何を見たのかよく分からず、ぜひもう1度ゆっくり訪れたいと考えていたのでなお更期待が高まる。正門の両側には1人づつ衛兵が直立不動の姿勢で立っている。ここの衛兵は人気が高く希望者が多い。所謂エリート、背が高くハンサムで格好が良い。選考基準の一つに身長185cm以上と聞いたと思う。観光客が衛兵の傍に来て並んで写真を撮っている。微動だにしない強靭な精神力には驚かされる。ハイ・シーズンには大勢の観光客が訪れ、衛兵は注目を一身に集め衆人監視に晒されている様なもの・・・。前回9月に来た時には制服は濃紺だったが、今回は夏服で水色、やはり涼しげな感じを受ける。ところでよく見ると写真の衛兵の目線がCameraを直視している様に見えるが・・・単なる思い込み?

 
プラハ城はヴルダヴァ河の西岸、マラー・ストラナの北側プラチャニの丘の上からプラハを一望する場所に建てられた歴代ボヘミア王の居城。9世紀半ばプシェミスル家により城の建設が始まり、その後カレルW世の時代にほぼ現在の姿に整えられた。16世紀のルドルフU世の時代がここを居城とした時に全盛期を迎えるが、次のマティウス王の時代にウイーンに都を戻し女帝マリア・テレジアの時代に大改築が行なわれたもlののその後は衰退の一途を辿る。その築城の歴史は拡張、増改築、一方では火災、破壊など不運の繰り返し・・・波瀾万丈の歴史と言える。しかしながら都度プラハ城は威厳ある姿を取り戻し、城内には各時代の様々な様式・・・ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック様式の華が咲き誇っている様に感じる。

 正門すぐ右手に
新王宮があり、現在大統領府として使われている。大統領府には1つの旗が掲げられている。そこには旧市街広場にあるヤン・フスの群像に刻まれている文字と同じ『真実は勝つ』と書かれている。『真実は勝つ』・・・ヤン・フスが火あぶりの刑に処された時の最期の言葉。

 第一次世界大戦後チェコが独立した時、初代マサリク大統領が初めてプラハ城に掲げている。その後ナチスドイツ、「プラハの春」へのソ連軍の侵攻などで幾度も蹂躙されたが、1989年ビロード革命にて人々は”ハベルを城へ”を合言葉に民主化を実現しプラハ城にハベルを迎えた。そこには『真実は勝つ』の旗が再び高々と掲げられた。

 正門を入ると18世紀ハプスブルク家の時代に作られた第1中庭がある。ここでは毎正時衛兵の交代式が行なわれる。交代式を見る為に大勢の観光客が集まっている、前回には交代式を見たが、今回は時間の関係で見ることができなかった。17世紀に建てられたマティアス門を抜けるとその先には第2中庭がある。マティアス門はもともとこの場所にあったのではなく、18世紀末の改築時に現在の地に移された。門の上部にはハプスブルク家の紋章と”私はチェコを治めるマティウス”の文字が刻まれている。マティアス王は自己顕示欲がよほど強かったことが窺える。最も絶大な権力者であれば当たり前・・・。

 第2中庭中央には1686年に造られたバロック式の
コール噴水、右手奥には18世紀に建てられた聖十字架礼拝堂(右の写真は2002年9月撮影)がある。中庭を歩いていると衛兵が3人、交代式に出るのか第1中庭の方へ行進して行った。規律正しく整然としたその姿に思わず引き込まれてしまう。

 第3中庭に通じる建物に12世紀の城壁の一部が残っている。12世紀?何年前?800年以上も昔の城壁の一部が現存するとは・・・。あちらこちらに結構古い時代の遺構が残っている。木造より石造りの方が相対的に残りやすいと言っても、古いものが残っているのには驚かされる。尤もヴラチスラヴァでは2万4000年前の像を見たが、そこまで遡るとあまりに古すぎて逆にピンと来なかったが・・・。

 第3中庭に抜けると、まず見えて来るのが高く聳える3つの尖塔(南側が96.5m、西側の2つの塔は82m)を有するゴシック様式の
聖ヴィート大聖堂がある。この大聖堂は全長124m、幅60m、中央身廓の高さ33mととてつもなく大きい。堂々たる面構え?は見る者に強烈な威圧感を与える。プラハ城内でも一際高く、ヴルダヴァ河の対岸からプラハ城の方を眺めると大聖堂の尖塔が真っ先に目に入る。

 926年聖ヴァーツラフが聖ヴィートのロンダ(円形教会)を建てた時からその長い建設の歴史が始まる。1420年にゴシック様式に改築、その後ルネサンス、バロック、ネオゴシック様式など様々な様式の増改築が行なわれ現在見る姿になった。最後の正面扉口の工事が完成したのが1929年、
聖ヴァーツラフが最初にロンダを建てた時から1003年も経過している。何と言う壮大な歴史ロマン・・・ただただ頭が下がる想い。

 大聖堂の拝観入口に長蛇の列ができていたがそれでも10分ほどで入場できた。3年前は自由に写真撮影できたが、現在はフォト・チケットが必要なので購入した。ストラホフ修道院でもフォト・チケットが必要だった。恐らく運営維持資金の確保が必要な為と思われる。それでも写真を撮らせてくれればよいが、チェスキー・クルムロフ城の様に撮影禁止となるとどうにもならない。

 大聖堂内部に入るととにかく広く、大勢の観光客がいても全く気にならない。ゆっくり見て歩くことができる。正面入口扉の上の方には1925年から1927年にかけて造られた
バラ窓がある。使われた色ガラスは2万6740枚。高いところにあるので大きさが分からず、ちょっと見た目にはそんなに多くのガラスが使われているとは思えない。表からは彫刻の見事さが、大聖堂内部からはステンドグラスの美しさが見る者に感動を与える。ところでバラ絵は『天地創造』を表わしているとのこと・・・しかしながらどうなっているのか未だに分からない。

 宗教的な場面を現したステンドグラスが数多くある。その中で最も有名なのが左側の第3礼拝堂にある
アルフォンス・ミュシャの傑作『聖キュリロスと聖メトデウス。その美しさは何度見ても感動する。芸術家は時々自らの作品に自らの姿を織り込むことがある。この作品のどこかにミュシャ本人が描かれているが、お分かりになるだろうか?後陣を飾る美しいステンドグラスは1934年マックス・ズヴァビンスキーの『最後の審判』、4万枚の色ガラスが使われている。但し遠く高いところにあるので少々見づらい。

 主祭壇の前には16世紀に造られた「
皇帝の墓」があり、そこにはハプスブルク家の皇帝フェルディナンドT世と王妃アンナ、息子のマクシミリアンU世が永遠の眠りについている。すぐそこに400年以上前の死者が葬られているかと思うと不思議な感じがする。写真の
棺は誰のか忘れてしまった。何か上部に書いてあるがさっぱり分からない。

 ところで右の写真を見て頂きたい。何やら不可思議な小さな部屋?が見える。いったいこれは何だろうか?ここで
懺悔して罪を悔い改めたそうだ。人間に煩悩がある限り、多かれ少なかれ懺悔することがいろいろありそう・・・。そこで身に覚えのある方はここで全てを告白して悔い改める・・・ことは残念ながらできない。

 主祭壇の右脇には18世紀に造られた
聖ヤン・ネポムツキーの墓碑がある。ここに飾られた銀色の彫像は何やら神秘的な雰囲気を醸し出している。ちなみにこの為に使われた銀の量は2t!実に見事な芸術作品で、贅の限りを尽くしている。この墓碑の向かいにはネポムツキー礼拝堂がある。

 14世紀後半に造られた
聖ヴァーツラフ礼拝堂がある場所には、11世紀にロンダがあり教会の名の由来となった聖ヴァーツラフの遺骸が保管されていた。大聖堂の中でも特別な場所と言える。他の礼拝堂より広く、壁は黄金の漆喰で仕切られている。更には壁にはエメラルド、ガーネットなどの宝石1372個が散りばめられている。聖ヴァーツラフの彫像や生涯を描いた見事な壁画もあり、数ある礼拝堂の中でも群を抜く素晴らしさ。正面と横から見ることができる。写真を撮ったつもりだったが・・・聖ヴァーツラフの威厳に恐れをなして金縛りにあってしまったらしい。

後ろを振り返ると18世紀に造られた巨大な
パイプオルガンがある。大聖堂の広大な空間に巨大なパイプオルガンの音色はどの様に響き渡るのだろうか?教会にはどこにもパイプオルガンがあるが、(日本では演奏を聴いたことがあるが)Europeでパイプオルガンの音色を1度でよいから味わってみたい。

 聖十字架礼拝堂の右脇から階段を降りると、
王家の墓所がある地下室に通じている。 途中に10世紀の最初の教会の壁が残っている。地下室の奥まったところには、ヴァーツラフW世、カレルW世と妻、ルドルフW世など歴代ボヘミア王の墓がある。今まで教会の地下にある王家の墓所を何ヶ所か訪れたが、目の前の棺にその名をよく知っている王が眠っていると思うと厳かな気持ちになる。

 プラハ城の最大の見所聖ヴィート大聖堂の拝観を終えて外に出ると、先ほどより待ち行列が短くなっている。時計を見ると12時、昼食時で観光客が少なくなっているらしい。こちらはまだ予定が残っている。

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