直線上に配置
 聖ヴィート大聖堂の反対側に歴代ボヘミア王の居城として使われた旧王宮がある。12世紀にボヘミア王の居城として建てられ、16世紀にハプスブルク家が城内に新らしい宮殿を建てるまで使われた。ハプスブルク家の新王宮と対比して旧王宮と呼ばれる。

 入口のすぐ左側に天井に多くの紋章がびっしり飾られている「
緑の間」がある。かつて王の謁見や裁判がここで行なわれた。ヴラディスラフ・ホールに通じる「騎士の階段」があり、傾斜が緩やかで段差が小さく各段も奥行きがある。何故その様に造られているか?それは直に明らかになる。

 騎士の階段を上がると、その先に15世紀末に建てられた
奥行き62m、幅16m、高さ13mのヴラディスラフ・ホールがある。完成当時中世Europeでは最大の規模を誇っていた。後期ゴシック様式のアーチ型のリブ・ヴァール天井が美しい。中世にはここで騎士の馬上試合や戴冠式などの重要な国家的行事が行なわれていた。それでこのホールに通じる階段は馬が通れる必要があった。1934年チェコ共和国の大統領選挙が行なわれ、ビロード革命後のハベル大統領選出もここで行なわれている。更に公式行事の晩餐会が行なわれるなど現在でも国政の表舞台に登場している。

 ホールの奥には王家専用の「
万聖節礼拝堂」がある。当初14世紀に建てられたが、16世紀後半に火災で焼失し再建された。王家のプライベート空間ではあるが、静粛ではあるが威厳にある雰囲気に満ち満ちている。更にホールの北側には「議会の間」がある。議会とは言っても中世の議会は現代とはスタイルが全く異なる。中世の議会では中央に玉座があり、次に大司教、聖職者、官吏、騎士が序列に応じて各々定められた位置(指定席)に座る。どの様に議事審議がなされたのかは分からない。厳しい身分制度がある中世に、各人が公平に1票を投じて採決したとは考えられない。

 ホールの南側にはバルコニーがあり、マラー・ストラナ、旧市街などがよく見渡せる。天気がよく高いところで呼吸するのは気持ちが良い。ところで先ほどフラチャニ広場からカレル橋の混雑が見えたが、ここから眺めるとその混雑の凄さが一層よく分かる。右の写真をご覧になって頂きたい。

 旧王宮には歴史上大きな出来事が起きた場所がある。そこは
ルードヴィッヒ宮殿、ここを見逃してはいけない。1618年歴史に残る有名な『突き落とし事件』が発生した。この事件がきっかけとなり全Europeを巻き込む30年戦争に発展した。

 
突き落とし事件とは・・・宗教改革の嵐が吹き荒れる最中、チェコ国内でもプロテスタントが勢力を伸ばしていた。カトリックの庇護者を自認するハプスブルク家の皇帝マティアスは当時統治下にあったチェコを強権による抑え込みを図った。それに対して反発したチェコ貴族などが、プラハ城に派遣されていた3人の王権の代理執行人を宮殿の窓から放り出した。 ところが窓の高さはかなりあったにも関わらず3人は助かった。何と窓の下はゴミの山、ゴミに集積場になっていた為にうず高く積まれていたゴミが運よくクッションの役割を果たした。 ところでどんなゴミがあったかは定かではないが、周りにかなりの悪臭が漂っていたのではないだろうか?余計なお世話・・・?

 旧王宮と聖ヴィート大聖堂の間を抜けると聖イジー広場に出る。広場の奥には白い2本の尖塔を有するロマネスク様式の
聖イジー教会がある。915年から921年にかけてヴラスティラフ王子により建てられ、973年にはヴォレスラフU世が隣にボヘミア初の修道院を併設した。18世紀末に修道院は使われなくなり、現在は美術館になっている。何度も破壊されているがその度に再建されている。現在に残る教会は大火災の後に1142年に再建され美しい姿を現在に留めている。残念ながら写真にはきちんと写っていないが、2本の尖塔は大きさが異なっている。右側太い塔がアダム、左側細い塔がイヴと呼ばれている。ホールの音響は素晴らしく、『プラハの春』音楽祭などのコンサートが開かれる。

 聖イジー教会の横を通り緩やかな下り坂の途中で左に行くと、フェンスがありようやく1人通れる位の入口がある。別にその入口で入場料を取る訳けではない。その先には黄金の小路があるが、一挙に人が押し寄せない様に考えているのだろうか?ちなみに出口もまた1人づつしか入れない狭いトンネルでなかなか出られず大混雑していた。

 
黄金の小路は錬金術師の小径としても知られている。1597年皇帝ルドルフU世の時代に衛兵の住居として建てられ、その後錬金術師が住む様になった。それが基で黄金の小路と名づけられたと言う。古今東西を問わずはるか太古の昔から権力者は黄金の魅力に魅入られ錬金術の虜になっている。ルドルフU世お抱えの錬金術師がプラハ城内の火薬塔で黄金製造の研究に余念がなかったと言い伝えられている。尤も単なる伝説に過ぎないが・・・。

 狭い通りの両側にはメルヘンチックな家々がところ狭しと並んでいる。そこに大勢の人がいるのだから息が詰まりそうに思える。通りの中ほどに青い壁に
NO.22と表示されている家がある。ここは作家のフランツ・カフカが1916年11月から1917年5月までの半年間、ここで執筆活動を行なっている。

 プラハ城の外れにある東門から城外に出る。ふと門の方を見るとここにも衛兵が番をしている。地下鉄の駅でトイレ休憩後自由行動となる。昨日カレル橋に行かなかった方々はここから直接カレル橋へ向かう。私は昨日カレル橋に行っているので、バスで一旦ホテルへ戻ることにする。ホテル近くのスーパーでパン、果物などを買い、部屋で昼食を簡単に済ませて再び散策に出かけた。

 ホテルの前の通りを西へ行くとすぐに華麗なアール・ヌーヴォー様式の
市民会館が見えてくる。ここにはかつて歴代ボヘミア王の居城があったが、17世紀後半に火事で焼失し更に時代を経て1911年に市民会館が完成した。ここにはコンサート・ホール、レストラン、展示会場があり総合文化施設になっている。1Fのスメタナ・ホールでは『プラハの春音楽祭』の幕開けにスメタナ作曲の「我が祖国」全曲が通しで演奏される。ガイドツアーは週2回程度の開催で日程が合わず見ることができなかった。

 市民会館のすぐ隣に後期ゴシック様式の堂々とした高さ65mの
火薬塔がある。1475年ヴラジスラフU世を讃えて建てられて、旧市街を守る城壁の門としての役割を担っていた。その後宮殿がプラハ城に移るとその存在意義を失い未完成のまま放置された。1757年にプラハはロシア軍に包囲され、その時この塔が火薬庫として使われたことから火薬塔と呼ばれる様になった。1866年に改築され現在の姿になっている。

 火薬塔の上に上がれるので入口を探したが分からない。そこで市民会館の受付に入口を尋ねると、「すぐ裏にある。」と教えてくれた。塔の後ろに回り込むとすごく地味ながら確かに英語で”Entrance”の表示がある。Europeに行くとこの様に地味な表示の施設が多く、いつものことながら悩まされる。

 一見すると”入口には思えない”入口の戸を開けて中に入る。途中に1ヶ所広いスペースがありそこで休憩をとり息を切らせながら螺旋階段を上がった。最上部は1人が歩ける位の幅のスペースが1回りしていて、一周するとプラハ市街の全貌を見渡すことができる。西方にはテイーン聖母教会の2本の尖塔、旧市庁舎の塔、更にその奥にはプラハ城が見える。

 ナ・プジーコピェ通りをヴァーツラフ広場方面に向けて歩きミュシャ博物館を目指す。パンスカー通りを目指したが気がつかず通り過ぎて引き返す。途中に通りから奥まったところにエステート劇場があるので先に立ち寄ることにした。

 
エステート劇場はチェコではスタヴォフスケー劇場と呼ばれている。ここは1783年に完成し1983年から1988年にかけて修復されている。1787年10月29日、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』の初演が作曲家自身の指揮で行なわれ大成功を収めている。また近年話題になった映画『アマデウス』の撮影がここで行なわれている。そう言えば映画の中にモーツァルトが皇帝ヨーゼフU世の御前でオペラを指揮したシーンがあった。

 建物正面の左手に
何とも不思議な像がある。台座の銘板には『1787年10月29日この劇場で演奏されたW.A.Mozartのドン・ジョヴァンニの記念として』とある。それにしてもこの像はいったい何を象徴しているのだろうか?あまりにも奇妙な姿には、想像力豊かな?私でもさすがにさっぱり見当がつかない。

 ナ・プジーコピェ通りに戻りパンスカー通りを右折して
ミュシャ博物館へ向かう。ミュシャと言えば聖ヴィート大聖堂のステンドグラスが印象深い。1860年モラヴィアに生まれたアルフォンス・ミュシャはアール・ヌーヴォーを代表する画家として日本でも高い人気がある。ここにミュシャの作品、下絵、デッサン、油絵、それに絵のモデルや家族の写真などが展示されている。それに一目でミュシャの作品と分かる官能的に女性を描いたポスターもある。入口の脇にあるショップで買い物をして博物館を出た。

 パンスカー通りをそのまま南へ向かうと、正面突当たりに昨日オペラを鑑賞したチェコ国立歌劇場がある。オペラ座を横目に見ながら聖ヴァーツラフ広場の方へ歩くと、1885年から1890年にかけて建てられたネオ・ルネサンス様式の堂々たる
チェコ国立博物館がある。  聖ヴァーツラフ広場の南端に位置し、広場を見下ろすその姿は威厳に満ちている。

 
聖ヴァーツラフ広場は長さ750m、幅60mあり、どちらかと言うと広場よりは大通りの方が相応しい。車道と歩道に分かれていて、中央には緑地帯がある。とにかくそのスケールの大きさには圧倒される。今日は土曜日なので、大勢の人がのびりとくつろいでいる。広場の南端には聖ヴァーツラフの騎馬像が4人の守護聖人に守られる様にして立っている。しかしながら修復しているので、4人の守護聖人はすっぽりシートに覆われて全く見えなかった。今回もあちらこちらで修復が行なわれてシートや足場がかけられていたが、保存の為には必要不可欠なので仕方がない。

 聖ヴァーツラフの騎馬像の前に
1枚のプレートがある。そこには『プラハの春』を蹂躙したソ連軍の暴挙に抗議して1969年1月に騎馬像の前で焼身自殺したヤン・ザーイック、同年2月に自殺したヤン・ザーイックの2人の名前が刻まれている。この2人はチェコの人々の心に深く刻まれている。痛ましい出来事から20年経過した1989年11月100万人ものチェコの人々が広場に集結し無血革命を成功させた。その時ハヴェルとドゥプチェクの2人の革命の立役者がバルコニーで大群衆の歓呼に応えたが、残念ながらどこかは分からなかった。

 のんびりと聖ヴァーツラフ広場を歩きエステート劇場の傍を通り旧市街広場に出る。鐘の音がするのでふと見上げると
テイーン聖母教会の尖塔に人の姿が見える。右の窓に人影があるのがお分かりになるだろう。体を激しく使っている様子から、どうやら教会の鐘を手動で鳴らしていることが分かる。凄い場所で凄い仕事をしているものだと感心した。

 時計を見ると16時50分、天文時計の前には既に大勢の観光客が集まっている。17時になると仕掛け時計が動き、窓が開いて12人の聖人が次々と姿を現わした。最後に中央の金色の鶏が一声鳴いて一連の動きは終わる。特に目立つ派手な動きはないが、話のタネに見ておいた方が良い。

 ところでチェスキー・クルムロフには詐欺まがいの両替があると書いた。プラハの街中にはあちらこちらに私設の両替所がある。ちらりと覗いて見ると”100YEN 17.11チェココルナ”とあるではないか?チェスキー・クルムロフよりレートが悪い。銀行、チェドック、あるいはインフォメーションで両替するのが安全と再認識した。

 夕食の為に18時30分にバスで出発することになっているので、18時過ぎにホテルに戻り背広に着替える。旧市街には小さいバスしか入れないので、今回だけヨゼフさんのバスではない。カレル橋の袂にあるレストラン
ムリネッツ(”水車”の意)で19時から夕食をとる。右の写真の一番左側の建物の1Fにある。実質今日が最終日、今回のツアー参加者全員で楽しい一時を過ごした。

 夕食が終わりカレル橋に出ると、20時30分を過ぎているのにまだ薄明るく大勢の観光客が歩いている。ヴルダヴァ河にはカレル橋、観光船、それに対岸の丘の上にはプラハ城が夕陽に映えてシルエットの様に美しい。暗くなるとカレル橋、プラハ城がライトアップされる。美しい眺めに心を残しつつホテルへ戻った。
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