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直線上に配置
 以前から知り合いのTaxiの運転手の案内で、南山城から奈良県境を越えて柳生の里まで足を伸ばす予定。今日も快晴、気分よくすごせそう。

 車で南下し
蟹満寺へ。今では民家に囲まれた小さなお寺だが、白鳳時代創建当時は壮大な伽藍と多くの子寺を有する大寺だったのこと。何年か前の発掘調査で大きなお堂の跡、現在のお堂を囲むような広い回廊跡が出土している。ここのご本尊は白鳳時代の名品、国宝釈迦如来像。黒光りしてとても立派な仏像で、いかにも霊験新たかという感じを受ける。すぐそばまで近寄って見ることができる。京の都から遠く離れたこの地に大きな仏像が祀られたのか、この寺にまつわる謎は多い。

 蟹満寺を有名にしているものとして『
蟹満寺縁起』がある。いわば鶴の恩返しならぬ蟹の恩返しというべきお話。本堂正面から見上げると金色の蟹の額が掲げられている。よく見ると蟹が大蛇を押さえつけている。また本堂内には縁起の絵が何枚もあり、テープで物語を流している。以前来た時には何もなかったが・・・。
 蟹満寺縁起はこちらへ。  http://www.anraku.or.jp/jiin7b.htm

 
神童寺は今回初めて訪れた。JR奈良線沿いに南下し山深い所に神童寺がある。車でないとちょっと行きにくい所にある。ひっそりとした山中にある由緒あるお寺。神童寺縁起によると次の通り。
 ”聖徳太子が開き、自ら千手観音の像を彫り本尊とし大観世音教寺と号した。後に役の行者がこの地に来て、除災招福のために自ら蔵王権現の像を彫り本尊とし、神童寺と呼ぶことになった。”


 本堂の裏手から楓といちょうを重ねて逆光で撮影。本堂の屋根と楓の赤、いちょうの黄のコントラストが良い。ところで、住職の奥様に伺ったのだが、このいちょうは以前倍くらいの高さがあったがあまりにも大きくなったので短く切ったそうだ。いちょうの木の下には葉がびっしり落ちている。今朝某TV局の撮影があり、また明日も撮影に来るのでこのままにしておいて欲しいと頼まれたとのこと。落ち葉の清掃もうかつにできないとは住職の奥様の談。

 木津川沿いに更に南下し
海住山寺(かいじゅうせんじ)へ。百人一首にある “みかのはらわきてながるるいづみがわいつみきとてかこひしかるらむ” にでてくる瓶原(みかのはら)を見下ろす小高い山の中腹にある。この寺は735年聖武天皇の勅願で良弁僧正に建立させた観音寺がはじまり。1137年に灰燼に帰したが、1207年解脱上人が再興。本堂を中心にして右に文珠(重文)と庫裏、左には初層に裳階をつけた朱塗の国宝五重塔がある。本堂には藤原彫刻の木造十一面観音立像を安置されている。

 急な坂道を山頂へ、かなり高い所にお寺があり眺めは絶好。リュックをかついで登ってくる人がけっこういる。ハイキングにしてはかなりきつく、ちょっとした山登り。境内を歩いているとおもしろい楓が目についた。盆栽のように丸く刈り込まれている。長年紅葉を見ているがこのように剪定してあるのはさすがにはじめて。本堂の裏山にまわると一面開けていてそこには楓が・・・。
眼下には広々とした瓶原の眺望が目を楽しませてくれる。このお寺の不思議な名前の由来の通り、この平野や小山を海や島に見立てているというのにも納得。ちょうどお昼時だったので、お弁当をひろげているグループが見られた。

 更に南下し
石仏の里として知られる当尾(とうのお)へ。行政上は京都府相楽郡加茂町だが、ここまで来るとほとんど奈良県奈良市内まで車で20分ほど。今日のお目当ては浄瑠璃寺、ぜひとも1度は見ておきたいスポット。ここへは3度来ているが妻は初めて。今回妻にどうしても見せたかったのは、修学院離宮、石山寺、そしてここ浄瑠璃寺。以前は来る人が少なかったように思うが、奈良市内から近いということもあり観光バスなどで大挙して訪れるようになってきている。

 
浄瑠璃寺の名は現世苦悩を救う薬師如来の東方浄土を浄瑠璃浄土と呼ぶことに由来する。ここのご本尊は秘仏薬師如来、三重塔内に安置されている。738年に行基により開かれたとされるが、この寺にまつわる初期の記録が少なく定かなことはよくわからない。  三重塔、池、本堂の構成が絶妙。 池の対岸には1107年建立の本堂の九体阿弥陀堂(国宝)がある。横長の本堂には大きな九体阿弥陀仏が安置されている。
何故9つか?この仏像は仏教で言う九品(くほん)を表現している・・・上品上生、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生・・・人間は生前の行いによりこの9つのいずれかに分けられる。写真でお見せできないのが残念だが、京都三十三間堂のような長い建物に大きな阿弥陀仏が9つ並んでいるところを想像していただきたい。ずらり並んだ九体阿弥陀仏は壮観、何度見ても感動する。三十三間堂の1001体の仏像も壮観だが、ここの九体仏も素晴らしい。またこの本堂には年に3回公開される
秘仏の吉祥天像 (重要文化財)がある。“当尾の美女”として名高いこの像を今回初めて見ることができた。その美しいお顔には感動する。

 昔の姿をそのまま今に伝える浄土式庭園に出て池の周りを散策。本堂の反対側に回りこむとそこに1178年に京より移築された
三重塔(国宝)がある。薬師如来を安置する三重塔(東方浄土)、中央の池を挟み本堂(西方浄土)を直線上に配置している。三重塔前の灯篭、池の中央にある石、本堂前の灯篭、本堂中央に一筋の道が浮かびあがる。昔の人々はここで極楽浄土を夢見ていたのだろうか? 本堂中央に切り込みがあり、年に2回、春分の日と秋分の日に三重塔の背後から上がる朝日がその切り込みに見事に差し込むとのこと、昔の人がすごい知見を持っていたのには驚くばかり。

次に
岩船寺へ向かう。729年聖武天皇の勅願で行基が建立したのがはじまり。813年嵯峨天皇が皇子の誕生を祝い、堂塔伽藍が整備され岩船寺となった。一時39の堂宇を誇る大寺院となったが、兵火に繰り返し遭い現在残っているのは本堂と三重塔のみ。この寺はあじさい寺として有名で、境内には数多くの紫陽花がある。6〜7月頃に来ればさぞ見事だろう。三重塔は834年〜847年にかけて仁明天皇の命で建立された。本堂は老朽化が進み1988年に再建。当地で今の住職から伺ったが、京都府が鉄筋で建て直すように言ってきたとのこと。しかし、先代の住職が強硬に反対して木造になったそうだ。考えてみれば先代の住職の主張は当然。鉄筋にしたらまるで趣きが変わってしまう

 山深い所を車で行くと、あちらこちらに磨崖仏がある。この付近には石仏が多くあり、“当尾の石仏”として有名。リュックを背負ってハイキングしている人の姿を見かけた。1日かけてのんびりと石仏を巡るそうだ。鄙びたところをぶらり旅もなかなか乙なもの。

 山道をしばらく行くと柳生街道に出る。次の目的地は
忍辱山円成寺(にんにくせんえんじょうじ)に向かう。「忍辱」とは、食料のにんにくのことではない。仏教の菩薩行六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)の一つで、いかなる身心の苦悩をも堪え忍ぶという仏道修行の上の大切な徳目のこと。円成寺は756年聖武・孝謙両天皇の勅願により鑑真和上の弟子が創建したと円成寺縁起にはあるが、1026年命禅(みょうぜん)上人が十一面観音を祀ったのがはじまり。境内に足を踏み入れると浄土式庭園がある。池には鴨がいてのんびりと日向ぼっこをしていた。美しい浄土庭園を見下ろす場所に入母屋造の楼門(重文)、寝殿作りの本堂(重要文化財)、鎮守の春日堂・白山堂(国宝)、平成2年再建の多宝塔がひっそりと静かに並んでいる。本堂は室町時代の寝殿造で重要文化財。本堂には藤原時代の本尊阿弥陀如来坐像(重要文化財)をまつられている。運慶25歳の作として有名な大日如来坐像(国宝)が多宝塔に安置されている。

 本日最後の目的地の
柳生の里へ向かう。大きな石垣の上に1848年に建てられた柳生藩家老小山田主鈴の屋敷がある。小山田主鈴は困窮した藩財政を立て直したことで知られている。1964年に作家の山岡荘八が買取り修復、しばしばここに滞在。 NHKの大河ドラマにもなった柳生が舞台の小説『春の坂道』の構想を練ったそうだ。彼の死後 1981年に遺族が奈良市に寄贈、一般公開されるようになった。現在ここには小山田主鈴、山岡荘八、旧柳生藩ゆかりの品などが展示されている。

 旧柳生藩家老屋敷の反対側の山の中腹にある柳生家の菩提寺
芳徳禅寺へ。柳生宗矩が亡き父柳生石舟斎の菩提を弔うため、沢庵禅師を開山として開いた寺。外観はまるで城塞、石垣に囲まれた堅固な要塞のように見える。すぐ近くに柳生十兵衛が弟子を養成した正木坂道場が再興されていて、そこから剣道の稽古の声が聞こえてきた。ここから途中山道を抜け奈良から宇治へ戻る。

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京都旅行記(2001.11)

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