第5段 * 有馬記念 ‐年末の大一番‐ *

 
12月28日中山競馬場で2003年JRAの総決算、有馬記念(2500m)が行われた結果は既報の通り1番人気のシンボリクリスエスが2分30秒5のレコードタイム、2着へ9馬身の大差をつけて圧勝。レース前半ザッツザプレンティとアクティブバイオが競る展開になり前半1000mが59秒前後のよどみのない流れとなった。良馬場にハイペース、実力馬にとってレコードタイムが出る要因が揃った。11月のJapan Cupを逃げ切ったタップダンスシティーは3番手に控える展開になった。距離が長くなるとスローペースになることが比較的多いがこのレースは違った。シンボリクリスエスのオリビエ・ペリエ騎手はちょうど中段の絶好の位置につけ虎視眈々と仕掛け処を見はからっていたようだ。シンボリクリスエスは第3コーナーすぎから外をまわって馬なりに進出し、第4コーナーを向いてからスパートして一気に差をつけた。

 今回のように展開による紛れもなく、
強い馬がすっきりとかつ豪快に勝つと気分がスカッとする。時として極端なスローペースで人気薄の馬が逃げ切ったり、有力馬同士が牽制しあって力を出し切れなかったりしてつまらないレースになってしまうことがままある。今回のように全ての馬が力を出し切れるレースは見ていて気持ちが良い。現時点での力の差が結果にそのまま反映されると考えてよい。

 1956年当時秋の中山競馬場は中山大障害が最大の呼び物であったが、春の東京競馬場の日本ダービーと比較すると、華やかさに欠けていた。有馬頼寧理事長は中山競馬場の新しいスタンド竣工を機に、呼び物になるビッグレースの創設を提案した。1956年12月23日ファン投票による第1回中山グランプリが開催された。年が明けて早々1月9日有馬理事長が急逝、功績を称え永遠に伝えるという主旨で有馬記念と名称を変更した

 有馬記念の中で最も思い出に残っているのは、と言うより
全てのレースの中で最も印象に残るのは競馬史上『最高の名勝負』と言われる第22回有馬記念このレースは今でも鮮明に覚えている。とにもかくにもすごいレースであった注目を集めたのは天馬『トウショウボーイ』と四白流星の貴公子『テンポイント』。この2頭は終世ライバルとして闘いを繰りひろげた。(動画はこちらで見ることができます。

 1977年12月18日中山競馬場、晴れ、良馬場。菊花賞で両馬を負かしたグリーングラスも出走している。スタート直後にトウショウボーイが先頭に立ち外からテンポイントが「敵はこの馬のみ」とばかりに競り掛ける。この2頭には他の馬は全く眼中になく、まさに中山競馬場のターフ上での一騎打ちの様相を呈していた。まるで2頭のマッチレースと言わんばかりに・・・。普通は2頭でこんなにやりあったらスタミナを激しく消耗し最後の直線では脚が上がらずバタバタになり失速してしまう。ところがこの2頭の実力は桁違い、そうなると展開による紛れなんぞあろうはずもない。トウショウボーイが先行し2頭は終始つかず離れず、第4コーナーでピッタリと馬体が合った。次の瞬間テンポイントがすっと抜け出し先頭に立った。トウショウボーイが懸命に差し返えそうとするも及ばず、3/4馬身届かなかった。2頭のライバルによる正真正銘の真っ向勝負、私のみならず多くの人に感動を与えた。勝者にも敗者にも惜しみない賞賛が与えられた。このような素晴らしいレースを2度と見ることができるだろうか?私はレース後かなり上気し、相当な興奮状態であったと記憶している。26年経過した今も鮮烈な記憶をして私の頭の中に留まっている。

 
トウショウボーイは有馬記念を最後に引退し種牡馬生活に入った。トウショウボーイは2200m以下では全勝、2500m迄は連対率100%(全て2着以内)、しかし2500mを超える距離では結果を出せなかった。類稀なる天性のシピードは産駒に受け継がれ、2年目の産駒『ミスタシービー』が三冠馬になるなど数多くの優秀な子供達を輩出した。1992年12月18日トウショウボーイは、奇しくもテンポイントと同じ蹄葉炎で19歳の生涯を閉じた。

 一方
テンポイントは有馬記念を最後に引退が決まっていたのだが、有馬記念勝利後海外遠征の計画が浮上。年が明けて1月、壮行レースとして日経新春杯に出走した。このレースにも鮮烈な記憶が頭に残っている。それは小雪舞い散る京都競馬場の第4コーナー、突然悪夢が襲った。
それまで快調に走っていたテンポイントが突然骨折、ガクンとなり100mほど走って競争を中止した。寒さ、硬い馬場、斤量66.5Kgの過酷な負担などが考えられる。私は一瞬何事がおきたのかわからず、次の瞬間その恐ろしい光景に顔面蒼白になった。骨が見えて鮮血が吹き出しているではないか・・・。このような重症の場合馬を苦しませない為に安楽死処分とするのが常だが、関係者の嘆願、更には国民的人気のこの馬を何とか救って欲しいとの声が多く寄せられた。2時間に及ぶ手術でその場の命は救えたものの、事故発生から42日後の3月5日蹄葉炎により多くの人の願いも空しくテンポイントはこの世を去った。私もおそらく難しいとは思いつつも、生き永らえて何とか種牡馬として子孫を残してくれればと思っていただけに今でも残念でならない。それ以上に
当時の関係者は当初の予定通り引退させていればこんなことには・・・との後悔の念があったのではないだろうか?


 馬券の世界から離れてはや20年たった。馬券の世界の真っ只中にいた頃は独自の馬券戦略を持ち豊富なデータで勝負、それで勝率が良くけっこう稼ぎがあった。独身時代には3ヶ月間ほど給料に手を付けずに生活できたこともあった。箱根湯本で泊まりの慰安会があり、翌日新宿場外まで特急に乗って馬券を買いに行ったこともある。ところがある時に何故か急に勝負への執念が失せた。それ以来競馬の世界から全く遠ざかっている。

 それでも
馬が走る姿の美しさに魅せられて、今でも競馬中継はよく見ている。競走馬は体重が400〜550Kgあり、あの細い4本の脚で全体重を支えている。平均時速おおよそ60Km/h位、最高で約70Km/h位のスピードで走るので、脚には相当な負担がかかる。まさに「ガラスの脚」で疾走していると言える。馬の走る姿の美しさと裏腹に常に危険を背負っている。落馬により騎手生命を絶たれた福永洋一騎手の姿もいまだにShockが大きい。つい最近もあったが落馬事故、特に加速がついた最後の直線での落馬、また骨折などで競争中止、予後不良で安楽死処分された馬の姿は見るに忍びない。競馬を見る時いつも人馬の無事を祈念している。走る為に生まれてきたサラブレットが愛しいが故に・・・。
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