第11段 * 小倉百人一首 ‐その優雅な世界、そして熾烈な競技カルタの世界‐ *

 
2004年1月10日大津市の近江神宮で小倉百人一首かるた競技『50期名人位・第48期クイーン位決定戦』が行われ、西郷名人が6連覇、荒川クイーンが2連覇を果たした。毎年TVの生中継を見ている。それにしてもすさまじい競技で、知力、体力、気力、精神力、瞬発力、暗記力などが揃っていないとダメ。まるで格闘技のようだ。たかがかるた、されどかるた、実に奥の深い世界。読み手が上の句を読み始めた瞬間目にも見えない位の速度で体が反応する。空札の場合お手つきをしない様に一瞬にして手を札から遠ざける。取り札がある場合には一瞬にして手が伸びる。どちらが取ったのか微妙な場合ローVTRを見てもあまりにも早すぎてよくわからない。練習量も半端ではなく訓練の賜物、いつもながら感心する。名人、クイーン、挑戦者全て20歳代、どの世界も若くして頭角を現さないと大成はしない

 選手は任意に選んだ25枚の札を横87cmの幅内に3段に並べる。並べ方はそれぞれの選手に高度な作戦がある。それをまた試合の進行状況に合わせて組み換える。読み手が1枚づつ上の句を読み、選手が下の句の札を取り合い試合が進行する。空札が50枚あるのも試合に緊張感を醸し出し面白くしている。相手陣の札を取るか、相手にお手つきがあった場合に相手に自分の手札を1枚送る。この送る札を選ぶのも戦術がいろいろある。自分の得意札を送りそれを自分が取ることにより相手にダメージを与える、比較的苦手な札を相手に送り自分のダメージを少なくするなどなど・・・。この駆け引きはまさに心理戦、見ていて面白い。最終的に自分の札が無くなった方が勝ち。名人戦は5番勝負、クイーン戦は3番勝負で勝ち越した方がタイトル保持者となる。

 何故あの様に選手は早く札を取れるのか?1句を頭から全て読んで下の句を取るのではない。
定まり字(きまりじ)があり頭の何文字かを聞いた瞬間に選手は下の句がわかり札を取りに行く。素人はどうしても句を順番に頭から読んでしまいがちなので札を取りに行くActionが遅くなる。選手は眼前に並んでいる札に書いてない文字、つまり定まり字が見えている。例えば ”こころあてにおらばやおらむはつしものおきまどわせるしらぎくのはな” は4字定まり、”こころあ”でこの札を取ることができる。1〜6字定まりがあり、最も多くても6文字聞けばそれで取り札に向かってする選手は体が反応する。「むすめふさほせ」、この文字で始まる6首は1字定まり、最初の1文字のみで取り札を識別できる。よく考えられたすごいゲームが昔から日本にはあると感心する。

 私は中学生の頃から古典文学が好きで、徒然草、土佐日記、枕草子、それに古今、新古今和歌集などをよく読んでいた。日本の歴史の中でも特に平安時代が面白い。古典文学の世界もやはり平安時代、特に王朝貴族の世界に興味を惹かれる。小倉百人一首は大学生の頃に百首全て暗記した。競技かるたをしていたわけではないのですさまじい勉強をしたわけではない。それでも何とか定まり字を覚えようと努力したり、下の句を見て上の句を頭に浮かべることはした。とは言っても誰と対戦したわけではなく、単なる趣味の領域にすぎなかった。

 和歌の初期の頃は万葉集のように素朴な歌が多かった。平安時代に入り王朝貴族の雅な世界になると、教養・趣味として和歌がもてはやされるようになってきた。その頃から「本歌取り」、「掛け」、「枕」、「序詞」など技巧的な面を競う様になってきた。

 みかのはらわきてながるる
いづみがわ いつみきとてかこひしかるらむ  中納言兼輔/新古今集
 かくとだにえやはいぶきのさしもぐさ さしもしらじなもゆるおもひを      藤原実方朝臣/後拾遺集
 
あしびきのやまどりのおのしだりおの ながながしよをひとりかもねむ    柿本人麿/拾遺集

 

 いずれも恋の歌。最初と2番目の歌の上の句は直接の意味がなく、下の句を引き出す為の序詞。3番目の歌の”あしびきの”は”やま”の枕詞、上の句はやはり下の句の”ながながし”を引き出している。またこの歌は万葉集の巻十一「足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾乃 永長夜乎 一鴨將宿」を手本とした本歌取りである。
私はこの技巧の世界がたまらなく好きだ。遊び心が私の好奇心をくすぐってくれる。

 
後鳥羽院の歌 「ひともおしひともうらめしあぢきなく よをおもふゆえにものおもふみは」、何とも言えず暗い。この歌が詠まれてから9年後の1221年、後鳥羽院は承久の変で敢えなく敗れ隠岐に流された。鎌倉幕府に完璧に牛耳られ鬱屈している気持ちがこの歌に現れているのだろうか?同じく承久の変に関与して佐渡に流された順徳院の歌 「ももしきやふるきのきばのしのぶにも むかしはものをおもわざりけり」、栄華を極めた王朝への郷愁がにじみ出た物悲しさがよく表現されている。後鳥羽院、順徳院は皇族にもかかわらず、まるで付けたしの様に99番、100番にひっそりと身を潜めているようだ。小倉百人一首の選者とされる藤原定家が、時の政権鎌倉幕府の北条氏に遠慮したとも言われている。

 
私が百人一首で最も好きな歌は『蜻蛉日記』の作者右大将藤原道綱の母の作第53番

 
なげきつつひとるぬるよのあくるまは いかにひさしきものとかはしる

 とてもわかりやすくシンプルな表現の中に、寄り付かなくなったいとしい人への想いが込められている。
初めてこの歌を耳にした時、何故か心に感じるものがあった。今となってはそれが何かはわからない。しかし私の心にしっかりと根付いている。
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