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 今日はいよいよ最終日、4日通して好天に恵まれ言うことなし。今日も23日に依頼したTaxiの運転手に案内を頼んだ。まずは紫式部が源氏物語を執筆したと言われる石山寺へ。ここは4度目、前3回は京阪京津線で浜大津へ、石山坂本線に乗り換え石山寺駅で下車して約10分で到着。石山寺の前の道は毎年3月の琵琶湖マラソンで選手が走る。TVで琵琶湖マラソンを見るとこの寺のことが思い出される。

 
石山寺は747年聖武天皇の勅願により良弁(ろうべん)僧正を開祖としたのがはじまり。石山寺縁起には ”『聖武天皇が東大寺造営に際し、大仏鋳造用の黄金入手を良弁僧正に祈願させ如意輪観音を祀る一宇を建てた” とある。平安時代になると貴族の物見遊山を兼ねた「石山詣」が流行した。紫式部も度重なる「石山詣」を行っている。また松尾芭蕉は源氏の間で ”あけぼのは まだむらさきに ほととぎす ” という句を詠んでいる。
 以前訪れた時は別に拝観料を払えば、本堂内陣と紫式部が源氏物語を執筆した『
源氏の間』を見ることができた。現在は小さい窓から『源氏の間』を金網越しに覗けるが、直接足を踏み入れてその場の雰囲気を味わうのに比べれば風情が感じられない。

 東大門をくぐり参道を歩いて行くと、一際大きな巨岩が目に飛び込んでくる。この石は硅灰岩、境内のあちらこちらに露出している。石灰岩が花崗岩の噴出によって熱変化してできた岩で、地表に現れるのは珍しく国の天然記念物に指定されている。この寺は山の傾斜を巧みに利用して建てられている。坂道と階段が多いので足腰が鍛えられる?山の景色と建物、樹木などがよく調和している。2月は梅、4月は桜、11月は紅葉、どの季節に訪れても見所は多い。瀬田川を見下ろす高台に
月見亭がある。ここからの眺めは素晴らしい。名が示すようにここから眺める月夜は風情があるそうだが、ぜひとも見たいものだ。

 最後の目的地の三井寺へ向かう途中、木曽義仲の墓のある
義仲寺(ぎちゅうじ)に立ち寄った。義仲の側室巴御前が建てた草庵がはじまりと言われる。小さな目立たないお寺で木曽義仲の墓、松尾芭蕉の墓、巴御前の供養塔がある。芭蕉の遺言によりここに芭蕉の墓が建てられた。

 次に
三井寺へ向かう。山内には桃山時代の建築美を誇る数々の堂塔、子院があり、いかにも大寺といった風格があり往時をしのばせる。三井寺は正式には園城寺(おんじょうじ)で天台寺門宗総本山。叡山の山門派と園城寺の寺門派に別れ、対立抗争を繰り返してきた。

 672年壬申の乱後、大友皇子の子大友与多王は父の霊を弔うために「田園城邑」を寄進して寺を創建、天武天皇から「園城」という勅額を賜わったことが園城寺のはじまり。金堂西側に閼伽井屋があり、この内部には井泉が湧いている。天智・天武・持統天皇の産湯に使われたことが三井寺の名前の由来になっている。

 金堂の近くに身高155.2cm、口径124.8cmの見事な桃山時代作の梵鐘がある。近江八景の『
三井の晩鐘』として知られ、その鐘の音は「日本の音百選」にも選ばれている。300円払って一回撞いたが、すばらしい響きに感激。

 金堂西側に
霊鐘堂があり身高156cm、口径123.2cmの奈良時代作の梵鐘がある。これは『弁慶の引き摺り鐘』と呼ばれている。これには次のような話が残っている・・・山門と寺門の抗争で弁慶が鐘を奪って比叡山へ引き摺り上げ撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒り鐘を谷底へ投げ捨てた。力持ちの弁慶にふさわしい話、それにしても600貫(2250Kg)もある大きな鐘を引き摺ったとは・・・なんとすごい言い伝えだろうか。現在は撞かれることはなく霊鐘堂に安置されている。

 これで全日程を終了し京都駅へ戻る。4日間ともに小春日和の穏やかな陽気で最高。
16時43分ののぞみで帰途についた。素晴らしかった紅葉の余韻に浸りながら…。

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京都旅行記(2001.11)