直線上に配置
 京阪六地蔵駅前からバスに乗り醍醐寺へ向かう。1時間に1本しかないが、昨日バス時刻を調べておいたので問題なし。11月26日から地下鉄東西線が六地蔵まで延長されるので六地蔵から醍醐寺や京都市内への行き来が楽になる。地下鉄東西線が開通する以前は、京都の街中から醍醐寺、勧修寺、随心院方面へ来るには三条京阪からバス、JR東海道線山科駅でバスに乗換、JR(又は京阪)六地蔵駅からバスなどの交通手段があるが少々面倒だった。地下鉄の開通で大いに便利になり、このあたりも更に観光客が増えるだろう。

 
醍醐寺には京阪六地蔵駅からバスで10分ほど乗り午前8時45分頃に到着。総門を抜け左手に三宝院を見ながら仁王門に向かってゆっくりと歩く。 桜の季節には参堂の両側にある桜が見事、人また人の波であふれる。今日はまだ時間が早いこともありまだ誰もいない。 醍醐寺と言えばまずは誰もが桜の季節を思い浮かべるが、秋の紅葉の季節もすぐれもの。あとで金堂でお坊さんに聞いた話によると次の通り・・・”豊臣秀吉の最晩年に有名な『醍醐の花見』が行なわれたが、実はその年の秋にも紅葉見物が予定されていた。  ところが秀吉の急死により行われることはなかった。” もしも秀吉が長生きしていれば、醍醐は桜とともに紅葉の名所として有名になっていたことだろう。

 醍醐寺は874年弘法大師の孫弟子にあたる聖宝理源大師が上醍醐山上に草庵を結び、准胝、如意輪両観音像を安置したのが始まり。907年醍醐天皇が勅願寺とする。醍醐・朱雀・村上天皇の深い帰依により次々に堂塔が建立され、951年には五重塔が落成し醍醐の山上山下に跨る大伽藍が整った。度重なる火災や戦乱により大半の堂塔は失われたが、
唯一奇跡的に五重塔だけが消失を免れ往時の姿を今に留めている

 午前9時に豊臣秀頼により再建された
仁王門(西大門)をくぐり入山料600円を払い広い境内(下伽藍)に入る。以前は春の桜の季節のみ入山料を取っていたように記憶しているが、現在はオールシーズン徴収している。 おそらく寺の維持費にあてているのだろう。

 まず目に入るのが右手に見える
五重塔(国宝)、高さ38mの塔は京都最古の建造物とされる。醍醐天皇の冥福を祈るため朱雀天皇が起工、951年村上天皇の御代に完成した。いつ頃迄かは知らないが昔は五重塔の1階を見ることができたらしい日本密教絵画の源流と言われる塔内部の壁画をこの目で見てみたい。1000年もの長い間ここに建っていることを思うと、心の安らぎとともに不思議な感動を覚える。五重塔の広場の手前にあるしだれ桜は満開の時期に見ると実に美しい。今は静かにその時期を待っている。

  五重塔と道を挟んで反対側に醍醐寺の中心金堂(国宝)がある。豊臣秀吉の命により、
紀州の湯浅の満願寺から移築されたお堂で、主なところは平安末期の様式を完全に残している。中央に鎌倉時代の作の本尊薬師如来像(重要文化財)、脇侍日光・月光菩薩(重要文化財)があり、その両脇には四天王が控えている。お堂内部には華美でない落ち着いた空間が私を待っている。今までにヨーロッパなどで教会や城郭などたくさん見てきているが、このような雰囲気に接すると”自分はやはり日本人なんだなあ”と実感させられる。

 下伽藍を更に奥に進むと
祖師堂不動堂旧伝法学院大講堂弁天堂女人堂など多くの建物がある。伝法学院とはその名が示すように修行道場で、かつてはここで多くの修行僧が勉学に励んだ。大講堂をすぎると林泉(池)と弁天堂が目に飛び込んでくる。林泉に映る紅葉、それに弁天堂・・・この景色は境内の一番の見所と言える。弁天堂にかかる橋は老朽化の為かなり痛んでいて今では通行禁止となっている。弁天堂には近づけないのかと思ったら林泉の左側を回りこむとお堂の背後に通じている。お堂の正面にまわり林泉から逆方向を眺めるとまた違った趣がある。以前は女人堂を抜けてそのまま上醍醐へ行くことができたが、今は途中に柵があり行き止まりになっている。
 仁王門まで戻り醍醐三宝院へ向かう。1115年醍醐寺第14世座主勝覚僧正により建立された門跡寺院。醍醐寺の本坊的存在で歴代座主の住まいとなっている。入り口の門を入ると大玄関の手前にしだれ桜があり春には見事な花を咲かせる。 ほとんどの建造物が重要文化財に指定されている。中でも庭園全体を眺められる表書院は見事な寝殿造りの様式で桃山時代の傑作・・・国宝に指定されている。池を挟んで反対側にある唐門(国宝)は伏見城から移築されたと伝えられている。 国の特別史跡、特別名勝に指定されている庭園は、1598年豊臣秀吉が“醍醐の花見”に際し自ら基本設計した。 回遊式庭園には滝、島、橋、石などが巧みに配され見所が多く、豊臣秀吉のダイナミックなセンスを随所に感じることができる。ただ残念ながらここは建物内、庭園ともに一切写真撮影禁止。

 10分ほどぶらぶら歩いて地下鉄東西線醍醐駅へ向かう。以前この付近を歩いた時には何もなかったように記憶しているが、今はすっかり様変わりしている。どこでもそうだが開発が進むと失うものの方が大きいのでは・・・と危惧の念を抱く。駅ビルで昼食を済ませ地下鉄に乗り三条京阪へ。川端通りの岩倉実相院行きバス停に大勢の人が並んでいる。 そこは嵯峨野方面のバス停も兼ねており大半が嵯峨野へ向かう人ばかり・・・なかなかバスが来なくてイライラしているのが見え見え・・・。仙台から来たと言うおばさんと話をしたが、午前中に大原へ行ったがものすごい人で大変だったとか。今の時期の様な観光シーズンには大原、嵯峨野などへは私は基本的には行かない。 バスで行くと大渋滞で時間が読めない上に、行った先でも人また人の大渋滞ではたまったものではない。

 午後1時頃のバスに乗り川端通りをひたすら北上、約40分で
岩倉実相院へ到着。ここを前回訪れたのはおそらく10年以上前のこと・・・だいぶ忘れていることもあり思ったより随分北にあると感じた。

 
岩倉実相院は現在は天台宗寺門派の単立寺院であるが、当初は1229年静基僧正が三井寺別院として紫野に開いた門跡寺院で「岩倉門跡とも呼ばれた。紫野から京都の街中を転々として、最後に応仁の乱の戦火を避ける為1441年岩倉の地に移ったとされる。  境内には本堂四脚門お車寄せなどこじんまりとした建物が見られる。 江戸時代中頃東山天皇中宮承秋門院が門跡となった時、「承秋門院の旧宮殿」を移築したと言われる。 襖絵等は狩野派の絵師により描かれ、玄関の衝立の唐獅子図は狩野探幽の筆とされる。 桃山風の池泉廻遊式庭園、それに客殿の東には比叡山を借景とする枯山水の庭がある。この枯山水の庭ではかつてはここで優雅に蹴鞠が行なわれた庭だったそうだ。

 客殿内に床がぴかぴかに磨かれてところがありそこに映る紅葉が美しい。ガイドブックにも紹介されている撮影ポイントで皆そこで写真を撮っていた。今一つ写真のできが不満でその綺麗さが伝わってこないのが残念。一方枯山水の庭の白と紅葉の赤の対比は美しく、更に太陽の光のあたり具合で色調に微妙な変化が見られた。
 帰りのバスの出発まで少々時間があったので、バス停近くにある岩倉具視が5年位蟄居生活をおくった幽棲旧宅へ行った。ここには岩倉具視や桂小五郎、坂本龍馬など明治維新前後に活躍した人達ゆかりの品が数々展示されていると記憶している。 ところが今日は月曜日、休みで門が固く閉じられている。かやぶきの風情のある屋根が見えるだけ・・・なんたる不覚!こんなことは調べればすぐにわかったのに、観光地だからと言って年中無休ではないことを忘れてはいけない。

 午後2時半頃のバスに乗り叡山本線修学院駅前で下車、3年前には訪れなかった曼殊院と詩仙堂へ行くことにした。このあたりには秋に京都を訪れると毎回来ている。紅葉の名所が多いわりには中心部ほど人は多くない。鄙びた感じがまだまだ残っていてのんびり散策するにはもってこいの地域。江戸時代初期宮本武蔵と吉岡一門の決闘、南北朝時代の足利尊氏と楠正成の合戦場として有名な
一乗寺下り松には、代を経た新しい松がわずかに1本あるだけ。 今でこそこの付近には家々がひしめきあっているが、昔は中心部から遠く離れた辺境の地であった。今回は時間がなく赤山禅院へは行けなかった。いつもは必ず訪れて福禄寿のおみくじを買うが今回は無し・・・。

 修学院駅からだらだらな登りを15分ほど歩くと、少し奥まった東山の懐に曼殊院がある。天台宗の開祖伝教大師最澄が延暦年間(728年〜806年)比叡山に道場を開いたのが始まりとされる。天暦年間(947年957年)是算国師が道場を西塔付近に移し「東尾坊」として伽藍を整えた。是算国師が曼殊院初代住職とされている。曼殊院と号するのは天仁年間(1108年1110年)第8代忠尋大僧正の時代で、この時北山に別院を建立した。その後1262年、桂離宮を造営した八条宮智仁親王の子第29代良尚法親王がこの地に曼殊院を造営し現在に至る。

 北側の通用門から入山し
大玄関(重要文化財)至ると、虎の間に狩野永徳筆の見事な虎の襖絵がある。数奇屋造りの大書院(重要文化財)には間仕切りの卍くずしの欄間など桂離宮の影響が強く感じられる。続く小書院(重要文化財)の黄昏の間には10種類の寄木で造られた違い棚、「曼殊院棚」がある。良尚法親王の見事な隷書が書かれた屏風には感激した。大書院の前には枯山水庭園が広がる。水の流れを表した白砂に鶴島と亀島を配し、小書院は水面に浮かぶ屋形舟を表している。小書院廊下の手すりを見るとなるほどと思う。5月のつつじ、11月の紅葉が美しいこの庭園は小堀遠州の手になる。小書院の奥には小堀遠州作の八窓軒茶室があり特別拝観料を払って見ることができる。以前床の間に狩野探幽筆とされる幽霊の絵があったと記憶している。現在はどこにも見あたらないが、「元々の持ち主に返却」してここにはないとのこと。
 曼殊院から約10分ほど南へ歩くと、ひっそりとたたずむ詩仙堂丈山寺に着く。地味な入り口はうっかりすると見過ごして通り過ぎてしまいそう・・・。大阪夏の陣での抜け駆けで徳川家康の怒りに触れた家臣石川丈山が1641年ここに庵を結び以後31年間隠棲した。優れた文人であった丈山は90歳で亡くなるまで、ここで清貧を旨とし聖賢の教えを自分の勤めとして世俗からひとり遊離しただひたすら風雅の世界に生きた。
 
詩仙堂の由来・・・中国の漢、晋、唐、宋の詩人36人を選び肖像画は狩野探幽に描かせ各々の詩人作の詩を丈山が書き「詩仙の間」の四方の壁に掲げたことによる。

 建物は
詩仙の間至楽巣(猟芸巣)躍蒙巣の3室と階上の嘯月楼からなる。詩仙の間の前面には丈山自身の手になる白砂の素晴らしい回遊式庭園がある。春にはつつじが咲きそろい、初夏には紫陽花、秋には紅葉と四季折々それぞれ美しい。ここに座って丈山になったつもりで庭を眺めると心が落ち着く。庭園には降りることができる。夕方の西日が映える庭園を歩き紅葉を眺めるのもまた格別・・・。静寂が漂う庭園に時折添水(鹿おどし)のコーンという音が響き渡る。
 午後5時を過ぎ詩仙堂の閉門時間となる。すぐ近くの圓光寺のライトアップは5時半から、まだ少々時間があるが早めに行ってみる。やはりライトアップの宣伝効果は絶大、中心部から離れたこの寺にも既に大勢の観光客が行列を作っている。

 1601年徳川家康は国内教学の発展を図る為、下野足利学校第9代学頭三要元佶閑室禅師を招き伏見に圓光寺を建立し学校とした。その後圓光寺は相国寺山内に移り、さらに1667年現在の地に移転した。ここには幕末の大老井伊直弼の懐刀長野主膳の愛人で晩年金福寺で余生を送った村山たか女の墓がある。この名を聞いてNHKの第1回大河ドラマ「花の生涯」が思い浮かぶ人はかなり古い・・・そう、私もその一人なのだ。

 ここのライトアップは昨日の青蓮院、知恩院とは違い庭に出ることはできない。お堂に座り目の前の庭園で繰り広げられる光と音楽の幻想的なショウを眺める。
ライトアップ全てに言えることではあるが、その醸し出す雰囲気には感動を覚える。しかしながら紅葉の美しさと写真撮影を楽しむにはやはり昼間が最高と私は思う。

 白川通りのバス停近くの料理屋で湯豆腐を食べる。京都の秋の夜はけっこう冷え込みがきつく、暖かい湯豆腐とお酒で体を温めた。 一乗寺下り松町バス停から市バスに乗り込み永観堂へ向かう。

 永観堂は正式には禅林寺と称する。平安時代初め文人・藤原関雄は弘法大師の弟子真紹僧都の徳を慕い別荘を寄進した。藤原関雄の没後真紹僧都により寺に改められた。永観堂の名は平安時代中期の僧、永観律師に由来するご本尊阿弥陀如来像は「みかえり阿弥陀」として広く名を知られている。この仏像は体は正面を向いているがお顔は左側を向いておりとても珍しい。この像には次のようなエピソードが伝えられている。

 1082年永観律師50歳の頃、2月15日早朝真冬の底冷えするお堂で一心に修行に励んでいた。突然ご本尊の阿弥陀様が須弥壇から下りて、なんと永観を先導するではないか。驚きのあまり「夢か現か幻か」と永観はその場に立ち尽くした。阿弥陀様は左肩越しに振り返り、「永観、遅し」と声をかけられた。我に返った永観はその尊く、慈悲深いお姿を後世に伝えたいと阿弥陀様に懇願、阿弥陀如来像はそのお姿を今に伝えている。

 ここは京都でも名だたる紅葉の名所、広い境内は午後8時を過ぎているにもかかわらず人また人で溢れている。中心部からも近く、また近くに南禅寺などがあり立地条件も恵まれている。本堂に安置されているご本尊阿弥陀如来像を久しぶりに見たが、記憶が古い為か思ったより小さく感じた。真横から振り返ったお顔が正面に見えるのは何とも不思議な感じがする。ライトに照らされた紅葉は素晴らしい。しかしながら紅葉を愛でるのはやはり昼間・・・とここでも改めて感じた。

 南禅寺境内を歩いていると天授庵のライトアップに気づいた。閉門まで20分ほどあり急遽見ることにした。天授庵は南禅寺開山第一世大明国師無関普門禅師を奉祀する由緒ある寺であるが、何故か現在は南禅寺とは全く無関係な人手(宗教法人?)に渡っている。入り口受付には貼紙があり、「当山は大本山南禅寺とは一切関係ありません」とある。南禅寺の猛烈な抗議によりこの貼紙を貼ることになったらしい。これでもまだ南禅寺側は大いに不満を持っている。南禅寺は天授庵が人手に渡ることを阻止できなかったのだろうか?このあたりの事情を何かで見たようにも思うが、残念ながら詳しい事情はわからない。

 蹴上から地下鉄東西線に乗り三条京阪から京阪本線に乗換え帰途についた。今日もまたホテルについたのは午後10時をすぎていた。

I am very tired! あと1日、明日も頑張るぞ・・・!
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京都旅行記(2004.11)

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