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直線上に配置
直線上に配置
 今日は最終日、ホテルを9時すぎにチェックアウトしてJR奈良線で京都駅へ。まずは荷物をコインロッカーへ預け、地下鉄に乗り東山駅で下車し岡崎方面へ向かう。最初の目的地は時代劇のロケでよく使われる金戒光明寺、その前に神宮通りの突き当たりにある平安神宮にお参りすることにした。

 神宮通りを北へ向かうと鮮やかな朱色の高さ24.4mの
大鳥居が見えてくる。1929年に建てられた当初はあまりの大きさに「景観を損なう」との反対の声が大きかったらしい。その後”京都ホテル”、”京都駅”などの建築を巡って大論争になったのは記憶に新しい。いつの世にも同じような問題は繰り返し起きるものだ。大鳥居に高い足場を組んで塗り替えなどの改修工事の様子をTVで紹介していた。建築以来75年一度も改修していないそうで、塗料の剥げやひび、色あせなどかなり痛みが激しい今では快晴の真っ青な青の中に鮮やかな朱色の大鳥居がくっきりと映えて美しい。

 
平安神宮は平安京遷都(794年)1100年を記念して、1895年平安京の大内裏を一部復元して建てられた。二層の楼門は応天門拝殿は大内裏朝堂院(大極殿)を5/8に縮小して摸している。ここには恒武天皇と孝明天皇(1940年に合祀)が祭神として祭られている。また平安京遷都1100年を記念して始められた京都三大祭の一つ「時代祭」の終点になっている。ちなみに出発は京都御所。

 拝殿の裏には明治、大正時代に作庭(7代目・小川治兵衛の作)された広大な池泉回遊式庭園
神苑が広がるが、ちょっと見ただけではこの建物の蔭にそのような壮大な庭園があるとは誰も想像もつかない。広さ1万坪の庭園は東・西・南・中苑からなりそれぞれ趣が異なっている。どの庭にも四季の花が植えてられているが、特に南苑のしだれ桜、西苑の菖蒲は見事。菖蒲の時期にはここを訪れたことがないので一度来てみたい。 また西苑と南苑には”平安の苑”があり、王朝文学に書かれている約180種の草木が植えてある。それぞれの草木が登場する詩歌や物語、それに作者、出典を紹介した小さな立て札があるのでとても参考になる。

 拝殿でお参りしてから神苑に入る。向かって左側の「白虎楼」の横が入り口になっており、拝殿の後方を回り込んで向かって右側の「神楽殿」の北側から出てくるようになっている。 いろいろな種類の桜の木が多くあり、春の桜が満開の季節に訪れるとその見事さには圧倒される。それと比較するとこの時期の神苑はぐっと地味な感じがする。

 西苑から林間を抜けてに中苑出ると
蒼龍池の風景が広がる。5月頃には約1000株もの杜若(カキツバタ)が紫の花を咲かせる。池に浮かぶ珊瑚島まで「臥龍橋(ガリュウキョウ)」と称する丸い飛び石があり渡ることができる。以前ここに来た時は春雨が降っていてなにか滑りそうな感じがしたのでパス(ちょっと情けないが・・・)したが今回は堂々?と渡りきった。ところで丸い飛び石の正体は何だろうか?実は豊臣秀吉により造営された三条大橋と五条大橋の橋脚を輪切りにしたもの。

 東苑に至ると
栖鳳池と池にかかる泰平閣(通称:橋殿)が一際目につく。やはり平安神宮(神苑)の代表的風景と言えばここであろう。栖鳳池には中国の伝説上の山「蓬莱山」をあらわした「鶴島」と「亀島」が配されている。 泰平閣を渡りきった先の栖鳳池の畔には尚美館(通称:貴賓館)がある。この2つの建物はいずれも大正時代に京都御所より下賜された。池、迎賓館、池のかかる橋殿、池に浮かぶ島、多くの植栽、華頂山を借景とした雄大な眺望・・・これらの絶妙な配置が素晴らしい感触を醸し出している

 橋殿は座れるようになっていてそこからの眺めもまた良い。妻が突然「何かあそこにいる。置物かしら?」と声を上げた。まさかそんのなところに無粋な置物があるはずがない。目の前にある島の松に大きな鳥がとまっている。観光客の声やCameraにもいっこうに動じる気配がなく落ち着き払っている。よほど人間を見慣れているのだろう。

 平安神宮から岡崎通りを北へ向かい
金戒光明寺へ。地元の人から「黒谷さん」と親しみを込めてよばれる浄土宗の大本山。ここは時代劇のロケがよく行なわれる。1175年法然上人はそれまで修行を積んでいた比叡山西塔の黒谷を下りてこの地に草庵を結んだのが始まりとされる。応仁の乱以降何度も火災に見舞われているが、その都度再建され現在に至っている。正面に見える御影堂も火災で消失後1944年に再建された。 通常は非公開だが現在は12月15日まで特別公開を実施している。

 今年NHK大河ドラマの「新選組」が放映されていることもあり、京都の新選組ゆかりの地には新選組と書かれた水色の旗が掲げてある。1862年会津藩主松平容保公が京都守護職に任ぜられた時このお寺に本陣を敷いている。ところで何故ここが本陣として選ばれたのだろうか?

 ・黒谷は小高い丘になっており自然の要塞、つまり城構えになっている。
 ・御所まで約2Km、また東海道粟田口まで1.5Kmと絶好の要所と言える。
 ・約4万坪の広大な寺域には約1000人駐留できる。

 
この本陣にて近藤勇、芹沢鴨が松平容保公に拝謁し「会津藩御預新選組」が誕生。その時の謁見の間で、おそらく近藤、芹沢の両名が座したであろう位置から松平容保公の御座所を眺めた。2段高いところに御座所があり、座って下段から上段を見るとかなり高い位置にあることがわかる。そこに当時の厳然たる身分関係(上下関係)を感じる

 旧本陣内を奥に進むと庭園があり、下に降りて巡ることができる。15分ほど紅葉や松を眺めながらゆっくりと散策した。人が少なく落ち着いた雰囲気が気持ちを和ませてくれる。
 金戒光明寺の近くに天台宗延暦寺を本山とする真正極楽寺(真如堂)がある。真如堂はここの本堂を指す。984年一条天皇の母東三条院(藤原詮子)が比叡山堂行寺のご本尊阿弥陀如来像(重要文化財)を神楽岡の離宮に移し、戒算上人を開山の祖として寺を興したのが始まりとされる 。阿弥陀如来像は京都六阿弥陀の一つ。応仁の乱の後各地を転々とし1693年よりこの地に居を定めた。かつては”隠れた紅葉の名所”で観光客も少なくゆっくりと紅葉を愛でることができたが、今や観光客が大挙して押し寄せるBig Nameの一つになっている。広大な境内には本堂(重要文化財)三門三重塔大師堂などが立ち並び大寺院の風格を窺わせる。
 本堂の裏から山を下り白川通りに出る。軽い昼食を済ませ哲学の道に出る。ここはいつもさすがに多くの観光客が歩いている。大豊橋から鹿ヶ谷山麓へ少し登っていくと大豊神社がある。「ねずみの社」として知られている。社伝によると、887年宇多天皇の御悩平癒祈願の為、藤原淑子が勅命を奉じて少彦名命を東山三十六峰第15峰の椿ヶ峰に奉祀して創建とある。ガイドブックにも載っておらず訪れる人も少ない。ほんの少し哲学の道からそれただけなのにこの静寂は何?ここにはユニークなものがたくさんある。 それは末社を鎮る 狛犬ならぬ狛ネズミ狛猿狛鳶狛キツネ・・・。皆さんにはぜひともここを訪れてこれらユニークな狛〇〇〇を楽しんで頂きたい。
 哲学の道の南の起点に熊野若王子神社がある。平安遷都とともに作られた三大熊野の一つで、小さいながらも京都の神社では格は高いとされる。こじんまりとした目立たない境内ながらも哲学の道の名に相応しいしっとりした雰囲気がある。1160年後白河法王が永観堂の守護神として熊野権現を勧請したのが始まり。明治初年の神仏分離令により現在の形となり今に至っている。

 永観堂、南禅寺を通り蹴上から地下鉄で京都駅に向かう。午後5時6分の新幹線で帰途に着く。久しく春の京都を訪れていないので、今度は桜の季節に・・・と考えている。何度訪れても飽きがこない・・・それが京都なのだ。

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京都旅行記(2004.11)

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