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第12段 * 想い出の皐月賞馬『ファンタスト』 * 永遠の愛馬 *
 
 私の最も思い出に残る競走馬は昭和53年の皐月賞を制した『ファンタスト』。この馬を一生忘れることは決してないだろう。ネアルコ(14戦全勝、イタリアダービー馬)、ナスルーラ(10戦5勝)の流れを汲むイギリスから輸入された良血馬「イエローゴッド」の産駒で、明け3歳(現在の数え方では2歳)のデビュー前から評判になっていた。「イエローゴッド」の産駒では『ファンタスト』以外に「カツトップエース」(皐月賞、ダービー)、「ブロケード」(桜花賞)が4歳クラシックを制覇した。「イエローゴッド」自身の勝鞍は5勝全てが1400m以下の短距離、また母系もグレイソブリン系と短距離の血が濃く、『ファンタスト』には当初から距離の壁はある程度予想されていた。母「ファラディバ」は名牝ソーダストリームの仔で、西の「タニーノムーティエ」のライバルで世の中を熱狂させた東の「アローエクスプレス」を産んでいる。『ファンタスト』のデビューは1977年6月26日札幌の新馬戦でダートの1000m。父親譲りの快速ぶりをいかんなく発揮し、好スタートから一気の逃げで2着に7馬身差をつけ1分0秒5の快勝。早くも4歳クラシック候補として名乗りをあげた。

 
何故私が『ファンタスト』にご執心だったのか?それは今から27年ほど前、当時競馬好きの仲間が10数名集まって「J.H.B(競馬狂会)」なる非公式?未公認?組織を作っていた。『ファンタスト』はその会での私の持ち馬だったのである。まず明け3歳の新馬戦がはじまる前に、競馬専門誌に掲載される馬の情報だけを頼りに自分の持ち馬を決める。各自自分が選択した馬に購入価格を設定する。有力馬は当然人気があるので競合する。最も高い価格をつけた者が落札する。そのようにして自分の持ち馬を決定する。『ファンタスト』は前評判が高く、当然の如く多くの者が入札した。競馬専門誌の情報の確度は相当高く、「J.H.B」の持ち馬は毎年皐月賞、ダービー馬、重賞ウイナーを輩出した。

 対象期間は新馬戦がはじまる北海道(札幌、又は函館)から翌年の6月の日本短波賞(現在のラジオ短波賞)までの1年間。
新馬からスタートして4歳春のクラシックまで、1年間あっという間に熱く過ぎた記憶が残っている。当時私はデータ整理を担当した。毎週競馬専門誌を購入し、全国全てのレース結果を見て「競馬狂会」の持ち馬の成績をチェックした。その時の情報整理は私の馬券戦術に大いに役立っている。対象期間はもちろん期間外も引退するまで自分の持ち馬を追い続けた。やはり自分の持ち馬ということになれば馬券を買う。好走して2着にまでくれば馬券が的中する確率が高くなる。私は『ファンタスト』が連に絡んだレースは全て(5レース)馬券を的中させた。『ファンタスト』の快走による馬券の配当などで当時私の懐はかなり潤っていた。

 2走目の
函館3歳ステークス(芝1200m)では1番人気、私はTV中継を大きな期待で見ていた。ところがスタート直後に落馬し私は顔面蒼白になった。その当時はInternetもなく全く状況がわからず不安でなかなか寝付けなかったが、翌日のスポーツ新聞で人馬共に異常なきことがわかり安堵した。いくら競馬好きの同好会的な集まりでの仮の持ち馬とは言っても、皆やはり本物の馬主と同じ心境になりきっている。レースの翌日は愛馬の話題で持ちきりになった。自分の持ち馬が勝てばもうたいへん、ある人は「ラッキールーラ」、「サクラショウリ」で2年連続でダービーを制覇していやはやすごい鼻息であったと記憶している。

 3走目の京成杯3歳ステークス(中山芝1200m)は新潟3歳ステークスを制した「タケデン」の2着と落馬後の不安をとりあえず解消してくれた。しかし4走目の朝日杯3歳ステークス(中山芝1600m)では外国産馬の「ギャラントダンサー」に1.3秒ちぎられ4着、年が明けて5走目の京成杯(府中芝1600m)では、ほとんど見せ場もなくまたもや「タケデン」に0.6秒差の4着と惨敗した。良血馬『ファンタスト』が思いのほか不甲斐ない成績で、4歳クラシック路線に乗れるのかどうか不安でいっぱい、この頃はなかば諦めていたかもしれない。

 ほとんど諦めかかっていた私に一筋の光明が差してきたのは、6走目の
東京4歳ステークス(府中芝1800m)だった。府中の長い直線で一旦先頭に立ったが、「サクラショウリ」に差し返され惜しくもハナ差の2着で実のところかなりくやしい思いをした。ただこれでもしかしたら皐月賞へ向けて化けてくれるかもしれないとの期待が膨らんできた。

 そして1977年3月5日、7走目の皐月賞トライアル
弥生賞(中山芝1800m)を迎えた。7頭立てと皐月賞トライアルにしては寂しいレース。さすがの良血『ファンタスト』もこれだけ不振が続いては4番人気に下がっていた。スタート直後に最後方に下げじっくり待機、今までとは全く異なる位置取りに私はとまどった。第4コーナーを回る時も6番手、どうなることかとハラハラしていたが直線馬群を割って鋭く抜け出し「サクラショウリ」をかわし先頭に躍り出た。さすがにこの時は「そのまま!そのまま!」とTVの前で力が入った。稍重の馬場で1分51秒7、「サクラショウリ」に1馬身差をつけての快勝この時は心底本当に嬉しかった。デビューの新馬戦圧勝の時は、まさか次の勝利までこんなに(なんと8ヶ月!)かかるとは思ってもみなかった。相当興奮していたらしくレース後にでっぱった角に頭をぶつけて血を流し、医者に診てもらうというおまけまでついた。小心者の私(笑)は血を見て青ざめたが、傷はたいしたことがなく縫合せずに済んだ。

 3週後のもう一つの皐月賞トライアル”スプリングステークス”を回避し、中5週のローテーションで1978年4月16日8走目の
第38回皐月賞(中山芝2000m)に臨んだ。この年の皐月賞の入場券を、『ファンタスト』に関する新聞の切り抜き、写真、出走時の競馬新聞などと共に”思い出”としてファイルに保存している。スプリングステークスの勝者「タケデン」が1番人気、「サクラショウリ」が2番人気、ついで『ファンタスト』が3番人気となっていた。14頭立ての3番枠、内枠ということもあったのか好スタートから逃げる「メジロイーグル」の2番手につけた。弥生賞で抑えて行って良い結果を出したので、中段あたりに控えるのかと思っていたのが違ったレース展開になった。第4コーナーを周って坂下で先頭に立ったが、それからゴールまでが実に長く感じられた。それこそ「ゴールはまだか?早くゴールになれ!」という心境で弥生賞よりも更に力が入った。「タケデン」は第4コーナー手前で既に圏外、「サクラショウリ」も3番手まで押し上げるも伸び足はない。『ファンタスト』の背後には後の菊花賞馬「インターグシケン」がひたひたと詰め寄ってきてゴール前200mあたりで馬体を接した。『ファンタスト』の柴田政人、「インターグシケン」の武邦彦(武豊の父)の両者の追い比べ、ゴール前での激しい叩き合いの末『ファンタスト』が凌ぎきった。稍重の馬場で2分4秒3、「インターグシケン」にクビ差の勝利私は祈る様な気持ちで必死にTVを見つめていた。ゴール後しばらく
 ”自分が2000m走ったかの如く”放心状態 だったことを鮮明に記憶している。本当の馬主が実際にGTを勝った時の心境を疑似体験したかのようであった。
 ダービートライアルの”NHK杯”を回避し1978年5月28日9走目の第45回日本ダービーを迎えた。『ファンタスト』は20頭立ての2番枠、皐月賞を勝ったものの距離の不安から4番人気であった。スタート直後から好位につけるも第3コーナーすぎでは早くも手が動きいわゆる”おつりがない”状態、その時点でもう無理と観念した。案の定直線を向いて全く伸びず、「サクラショウリ」に1.6秒差の10着に大敗した。レース展開の不利や体調不良ではなく、敗因は明らかに血統からくる”距離の壁”であった。この時競馬が「血のスポーツ」であることをあらためて思い知らされた。

 秋のクラシック戦線に備えるべく夏季は北海道へ移動し,1979年7月9日10走目の
函館記念(芝2000m)に出走し「バンブトンコート」の3着に敗れた。函館記念直後のスポーツ新聞を見て私は愕然とした。なんと「皐月賞馬ファンタストが腸捻転で死亡」とあるではないか!皐月賞の勝利から僅か84日、『ファンタスト』は函館記念の当日帰厩後急死してしまった。何と言う悲しい終焉、私はがっくりと肩を落とした。現役馬としての活躍、更には「イエローゴッド」の後継馬として子孫を残すことに大きな期待をしていただけに痛恨の極みであった。

 
『ファンタスト』は私にかけがえのない思い出を残してくれた『ファンタスト』の馬名の意味するところは”夢見る人”。母「ファラディバ」が『ファンタスト』を産んだ翌年この世を去り、オーナーの伊達秀和氏が名牝「ファラディバ」最後の仔『ファンタスト』に大きな夢を託した。『ファンタスト』は私に1年間、競馬を通じて壮大な夢を見させてくれた。ただ残念ながら夢半ばにして途絶してしまった。かえすがえすも残念無念。『ファンタスト』が種牡馬として子孫を残しクラシックレースに勝利することを夢見ていた『ファンタスト』の血が繋がり子供達が今でもターフを走っていればどれほど嬉しいことか・・・。私の心の中にはいつまでも『ファンタスト』の勇姿が焼きついている。

 
最後に一言、「ファンタストよ、ありがとう!


(2004.04.01 追記


 Internetで検索していたら柴田政人調教師のトークショウの記述を見つけた。そこで彼が初めてクラシックレースを制したファンタストを次の様に語っている。

 「私の騎手生活で忘れられない馬といったら皐月賞で勝ったファンタスト(「夢見る人」という意味)です。私がクラシックで初めて優勝した時の馬です。しかしダービーの後、遠征した夏の函館競馬場で腹痛を起こして、そうとう苦しんで亡くなってしまいました。気の弱いところがあって手のかかった馬ですが、
最期にはすごく馴れて名前通りの可愛い馬でした。
私の肩に顎をのせて大きな声で鳴いて倒れたのが最期でした。」

 
私はファンタストの死後25年近く経過して最期の様子を知り涙が出てきた。皐月賞を制した柴田政人騎手に最期を看取られたのはファンタストへのせめてもの供養と言えよう。それに忘れられない馬としてファンタストの名を彼が挙げたことがとてもうれしい。今となっては昔の物語、『ファンタスト』の名を覚えている人も少ないと思う。しかしながら『ファンタスト』は永遠に私の”愛馬”なのだ。
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