第17段 *ハプスブルク家 その成り立ち Part8 * 女帝マリア・テレジア その1 *

 
オーストリアのハプスブルク家と言えば誰もがまず女帝『マリア・テレジア』を思い浮かべる。マリア・テレジアはフランツ・シュテンファン(皇帝フランツT世)を婿に迎え、夫亡き後も長男ヨーゼフU世と帝国の共同統治者として君臨した。彼女は妻、母、それに政治家として類稀なる才能を発揮した。マリア・テレジアの末娘マリア・アントーニアはマリー・アントワネットのことで、フランスブルボン王朝ルイ]Y世の王妃。ウイーンのシェーンブルン宮殿「鏡の間」で当時既に天才として名高かった6歳のモーツァルトがフランツT世、マリア・テレジアの前で御前演奏を行なった。その時モーツァルトはマリア・テレジアの膝の上に乗り抱擁しキスしてもらった。また幼少のマリー・アントーニアが何かのはずみで転んだモーツァルトを抱き起こしたが、モーツァルトが嬉しくて「僕のお嫁さんにしてあげる。」と無邪気に言ったエピソードはあまりにも有名。・・・とこのあたりまでは誰もが知っているが、それ以外は意外と知らないことが多い。

 
名門ハプスブルク家がはじめて歴史に登場するのは11世紀頃だが、実質的にはこの王朝の始祖とされるルドルフT世が神聖ローマ帝国の皇帝になった時がはじまりと言って良い。ヨーロッパの辺境の弱小国家にすぎなかったこの国は、15世紀後半にマキシミリアンT世がブルゴーニュ公国の娘と結婚してから全ヨーロッパに及ぶ大規模な王朝に発展した。その後一躍歴史の表舞台に登場し、ヨーロッパの歴史はハプスブルク家抜きでは語れないほどになった。面白い話が多くあるが、そのあたりについては後日別途触れることにする。

 
マリア・テレジアは皇帝カールY世と王妃エリザベート・クリスティーネの長女として1717年に誕生した。皇帝夫妻には2人の王女のみ、皇位継承者となるべき王子はついに授からなかった。当時の国際社会の常識として王家を継承できるのは王子に限られている。そこでカールY世としてはハプスブルク家存続の為、何としても長女マリア・テレジアに王家を継承できるようにする必要がある。そこで彼は相続順位法を制定し長子相続を明確に打ち出した。当時英仏の王朝では嫡子が全てを継承するのが一般的だったが、ハプスブルク家では兄弟で分割する方法がとられていた。それが基で内紛や肉親間の骨肉の争いが生じて国力の減衰に繋がることもあった。この相続順位法はハプスブルク帝国内の各州の承認を得たが、周囲のプロイセン、バイエルンなど列強は国際法違反を叫び容易には受け入れ様としなかった。カールY世は東インド会社の放棄、所領の割譲など多大な犠牲を払い、耐え難きを耐え忍び難きを忍びやっとの思いで承認を取り付けた。自分の国のことなのに他国が口をはさむのは内政干渉に思えるが、そこにはおそらく「神聖ローマ帝国」の影があるのだろう。そのあたりの事情は「神聖ローマ帝国」をじっくりと研究してから触れる。

 
マリア・テレジアは5歳の時、当時14歳の初恋の人ロートリンゲン公の公子フランツ・シュテファンに一目ぼれした。それにしても5歳で一目ぼれとは・・・何とおませなことか。彼女はフランツ・シュテファン以外には全く目もくれず恋を貫き通した。どの王家でも君主の子供の結婚相手が本人の意思とは無関係に君主と宮廷の意向で決められるのが常、ハプスブルク家の継承者が他にはいないと言う特殊事情もあったと思う。1736年2月、二人はウイーンのアウグスティーナ教会で結婚式を挙げた。父親のカールY世が長生きしていればもめごとが起きなかったかもしれなかった。しかし、1740年10月、カールY世が突然この世を去ると事態は急変、周囲の列強諸国は手のひらを返すようにマリア・テレジアの王家継承を認めず露骨に横槍を入れてきた。マリア・テレジアを「たかが小娘」とあなどりハゲタカの本性を現したのだ。これから彼女のハプスブルク家を守る長い戦いがはじまった。

 
マリア・テレジアはフランツT世との20年間の結婚生活で16人もの子供を生んだ普通の王妃とは異なり夫に代わり政治の実権を一手に掌握し内政/外交をこなしていた。そのような彼女が激務をこなしつつ出産という大事業も成し遂げたのだからすごい。16人の子供の内10人が成長した。当時の乳幼児の死亡率が高い衛生状況を考えればごく普通のことだった。最も流行したのは天然痘でこの頃はまだ治療法がなかった(ジェンナーが治療法を発見したのは1796年のこと)。それ故不謹慎な言い方だが、歩留まりを考えると子供はどれだけ多くいても多すぎることはなかった。また子供が多いと他の王家との婚姻により政治的安定、また勢力圏の拡張にも役立つ。ハプスブルク家は軍事的には目立った戦果はなかったが、優れた結婚戦略によりヨーロッパ全域に勢力圏を拡大した。スペイン王家との二重結婚により偶然に偶然が重なり”濡れ手に粟”でスペイン王国を手に入れ約200年間に亘り実質統治した。

 
マリア・テレジア自身は熱烈な恋愛結婚をしたにもかかわらず、自身の子供達にはそれまでのそれまでのハプスブルク家の結婚戦略を踏襲し通例に従いしかるべき王家との縁組を行なった。ただ一人の例外、次女クリスティーネを除いて・・・。マリア・テレジアはリスティーネとザクセン王家の血筋を引くアルベルトの結婚を認めた。この結婚によって何も得るものはなかったが、クリスティーネを溺愛していたマリア・テレジアはこの二人を庇護しアルベルトにハンガリー総督の地位を与えた。一方四女アマーリエの場合は全く違った。アマーリエにもクリスティーネ同様将来の契りを交わした恋人、ドイツの小国の公子カールの存在があった。しかしながらこの二人はマリア・テレジアにより引き裂かれ、北イタリアのパルマ王国の王妃として送り込まれることになった。政治面では公平を期したマリア・テレジアであったが、どうも自身の子供の扱いについては公平とはいかなかったようだ。この場合どう考えても明らかに差別しているとしか思えない。アマーリエは「母が自らの意思を通して結婚したこと」、「姉クリスティーネの恋愛結婚」と比して自分への扱いが納得できず抵抗したがどうにもならなかった。その後彼女は母への反抗からかパルマで傍若無人の行状を繰り返し、ついにマリア・テレジアから勘当されてしまった。オーストリアから見放されたパルマはフランス革命後、フランス軍により占領されてしまった。

 
マリア・テレジアは1760年の長男ヨーゼフの王妃選定にはじまり、その後約10年間縁結びの神となった。長男ヨーゼフは皇帝を継承するので問題ないが、それ以外の王子にはしかるべき国の君主の座を探した。王女にはまさに政略結婚の道具として嫁入り先を探した。ハプスブルク家の安泰の為の謂わば”生け贄”としてヨーロッパ各地に送られた。マリア・テレジアはプロイセンなどのドイツ諸国を徹底的に嫌っていたようで、以前は事あるごとにハプスブルク家と対立してきたフランス王家に接近した。カールY世死去時ハプスブルク家の継承権を主張したバイエルン、またオーストリア領シュレージエン(ポーランド西部)を強奪したプロイセンなどの態度を見れば、彼女がドイツ諸国に激しい敵対心を持つのも無理からぬこと。彼女の子供の内実際に結婚した6人の内5人がブルボン王家ゆかりの者だった。その中でもマリア・アントーニアは国王ルイ]Y世に嫁ぎその後悲惨な最期を遂げたことであまりにも有名。あくまでも結果論ではあるが、その後の歴史の経緯からするとドイツを捨ててフランスと手を結んだことは大きな失敗と言える。18世紀末フランス革命によりブルボン王朝は倒れ、19世紀に入りドイツが強大な軍事力を背景にオーストリア帝国を脅かした。

 次の段ではマリア・テレジアを政治面から掘り下げることにする。彼女が行なった国内での様々な改革、近隣諸国との外交政策に焦点を当てる。
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