第18段 *ハプスブルク家 その成り立ち Part9 *女帝マリア・テレジア その2 *

 
女帝『マリア・テレジア』はハプスブルク家の継承者として実質的に政治の表舞台に登場した婿のロートリンゲン公フランツ・シュテンファン(皇帝フランツT世)は己が政治向きでないことをよく承知していて、国家の統治は全て王妃マリア・テレジアが仕切っていた。通常の王家では王妃は子宝に恵まれれば良しとされたが、彼女の場合は子作りは副業で政治が本業であったと言える。後にも先にもこのような例は全くない。皇帝フランツT世は名目上の皇帝であり、マリア・テレジアがあればこその皇帝であった。それではいてもいなくてもどうでも良い空気のような存在かと言うとそうではない。そこはやはり男、女帝を陰で支える力強い存在であった。1760年にフランツT世が亡くなると、とたんに周囲の列強諸国はマリア・テレジアをあなどり牙を剥いてきた。それと皇帝は有能な財政家で、トスカーナ公国大公であった彼は破綻状態にあったこの国の財政を短期間で立て直した。またウイーンのアウガルテンは世界有数の磁器であるが、ここを素晴らしい磁器生産地に仕立て上げたのもフランツT世の功績の一つである。二人は婦夫随(夫唱婦随?)で、お互いの特徴を充分に生かして国政を担っていた

 時期は
1740年10月、父カールY世の突然の死まで遡る。相続順位法によりマリア・テレジアの王家継承は保証されているはずだったが、周囲の列強諸国は23歳の若き王妃に牙を剥いて襲いかかってきた。以前の約束なんぞ全くの無視、列強は若き王妃を舐めてかかり各々の権利を主張し身勝手な行動をとる。バイエルンはハプスブルク家の継承権を主張、プロイセンのフリードリッヒU世(フリードリッヒ大王)にいたってはカールY世の死後僅か2ヶ月後にオーストリア領シュレージエン(ポーランド西部)に侵攻し奪い取る。以降同地は2度とオーストリアに戻らなかった。この1件が「オーストリア継承戦争(1740年〜48年)」、それに続く「七年戦争(1756年〜63年)」の引き金となった。マリア・テレジアは以後フリードリッヒ大王に激しい憎しみを抱き、生涯”打倒フリードリッヒ”に傾注する。この激しい憎悪こそが彼女のエネルギーの源になったと思う。

 オーストリア継承戦争当初、オーストリアはバイエルン、スペイン、ザクセン、プロイセン、フランス、イギリスなどに攻められ全くの孤立無援であった。普通の女性であればここでくじけて妥協していたであろう。しかしマリア・テレジアは気骨ある芯の強い女性でオーストリアを守り通した。1742年にプロイセンがブレスラウの和約(シュレージンの領有をプロイセンに認める)により撤退、次いで海外植民地を巡るフランスとの対立からオーストリア側につき風向きが変わってきた。更にマリア・テレジアはハンガリー議会に乗り込み、5ヶ月にも及ぶ粘り強い交渉の末3万のハンガリー軍と軍資金を獲得した。ハンガリーは長い歴史的経緯からオーストリアへの不信感は根深く、そう簡単にはマリア・テレジアの要請を受け入れなかった。しかしながら彼女の心底からの誠実な訴えが実を結び、ついにハンガリーはオーストリアへの全面協力を約束した。これらによりオーストリアは劣勢から次第に挽回し攻勢に転じた。その後戦況は一進一退を繰り返し、1748年10月アーヘンの和約によりオーストリア継承戦争は終結する。マリア・テレジアのハプスブルク家継承と領土をほとんど確保できたが、奪い取られたシュレージエンのプロイセン領有を認めざるをえなかった。この和約は領土の原状回復を原則としたにもかかわらずシュレージエンを犠牲にした為、次なる抗争「七年戦争」の火種を残すことになった。マリア・テレジアが痛恨の想いでこの和約に応じたことは容易に想像できる。一方フリードリッヒ大王はマリア・テレジアが徒者ではなく、”たかが小娘”などとは言えない恐るべき強敵(ライバル)の出現を感じることになった。

 
マリア・テレジアは巧みな外交戦略を展開した。彼女が登用した宰相カウニッツ伯爵はプロイセンに対抗する為にそれまでの宿敵フランスと、また東方のロシアと手を結ぶことを提唱した。彼女はカウニッツの提案を採用し彼に極秘交渉を命じた。カウニッツは単身ヴェルサイユ宮殿に乗り込み、ブルボン王朝ルイ]X世の代理人で愛人のポンパドゥール夫人と密かに交渉を繰り返しハプスブルク・ブルボン同盟が成立した。ポンパドゥール夫人が才女でルイ]X世の信頼を得ていたことは知っていたが、重大な外交交渉を任されるほど権力を与えられていたことを今回初めて知った。またロシアにおいても女帝エリザベータ(ピョートル大帝とエカテリーナT世の次女)と秘密交渉を行ないこちらも同盟が成立した。これにてオーストリア、フランス、ロシアによるプロイセン包囲網が出来上がった。これがいわゆる『3枚のペチコート』同盟、さすがのフリードリッヒ大王もこれには脅威を感じていたらしい。おまけに頼みとするイギリスはフランスとの植民地抗争に力を注がねばならずあてにならない。オーストリア継承戦争時とは逆にプロイセンが孤立無援に追い込まれた。

 プロイセンはイギリスと同盟を結び、1756年得意の先制攻撃を仕掛けザクセン王国のドレスデンを手中に収めた。これが発端となり
七年戦争が勃発した。当初は『3枚のペチコート』同盟の効果が充分に表われ、さすがのフリードリッヒ大王も降伏寸前の窮地に追い込まれた。ところが歴史には偶然の出来事が結果に大きな影響を与えることがままある。偶然は本当に恐ろしい。1762年1月『3枚のペチコート』同盟の一角ロシアの女帝エリザベータが急死、跡を継いだ甥のピョートルは熱狂的なフリードリッヒの信奉者。これにて『3枚のペチコート』同盟はもろくも崩れ、フリードリッヒにはとてつもない追い風が吹いた。更にフランスは海外植民地抗争でイギリスに敗れ、カナダ、インドをイギリスに奪われる破目に陥った。こうなると形勢は一挙に逆転、1763年にパリ条約が結ばれシュレージエンはプロイセンの領土になることが確定した。

 マリア・テレジアは念願のシュレージエン奪回はならなかったものの、父カールY世から継承した広大な領土を守り通した。これで『
オーストリアにマリア・テレジアあり』との名声は不動のものになった。「女だからと言ってあなどられてはならぬ」との一念が、もともと芯の強いマリア・テレジアを更にパワーアップさせたと思う。但し、歴史的に見ればこれらの一連の抗争でハプスブルク帝国の弱体化が進んだのは否めない事実である。ハブスブルク帝国は1918年まで続いたが、マリア・テレジアの死後19世紀以降になるとその権威は失墜し過去の栄光は見る影もないほど衰退した。

 次の段では旧態依然としていた国家にメスを入れ近代国家への改革を成し遂げたマリア・テレジアの内政に触れることにする。

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