第19段 *ハプスブルク家 その成り立ち Part10 * 女帝マリア・テレジア その3 *

 
マリア・テレジアの内政面でも多大な功績を残したマリア・テレジアはプロイセンにシュレージエンを奪われた時、旧態依然としたオーストリア帝国では列強諸国に対抗できないことを実感した。彼女はオーストリアの近代国家に変貌を遂げるべく大改革を行なった。革新的な改革にはいつの世にも”抵抗勢力”はつきもの、激しい抵抗をことごとく撥ね退け改革を断行した。財政赤字や経済不況に悩むどこぞの国でも改革を声高に叫んで登場した政治家がいるが、抵抗勢力に進路を阻まれ立ち往生している。本気でやる気があるのかどうか?改革が遅々として進まず立て直しがおぼつかない状況にある。マリア・テレジアと某政治家で決定的に違うのは保有する権限(権力)の大きさ。大改革の断行には強大な権限が必要、しかしそれは同時に”独裁”との諸刃の剣になる危険性をはらんでいる。

 マリア・テレジア
人材登用は見事なもので、まさにつぼにはまり適材適所と言うにぴったり。彼女は国家の存亡の危機にもかかわらず何の役にも立たない重臣達をばっさりと切り捨てた。一方家柄や身分が低いが斬新な発想の持ち主や先取の気概の持ち主を積極的に登用し責任のある仕事を与えた。彼女は”人を見る目”があったのだろう。彼女が登用した人材は大きな功績をあげ改革推進に大いに貢献した。財政分野で活躍したハウクヴィッツ、新軍隊制度を確立したダウン将軍、第18段で述べたカウニッツ伯爵、ブリュッセルから招聘した医学分野のヴァン・スヴィーデンなどが各々の得意分野で才能を発揮した。ハウクヴィッツはそれまで全く無名であったが、彼が提出した改革案をマリア・テレジアが高く評価し重職に抜擢された。人は自分が高く評価されるとますますやる気充分になり更に能力を発揮しより大きい結果を出す。マリア・テレジアは人材活用術の天才的使い手であったようだ。優秀なスタッフは何者にも替えがたい。

 マリア・テレジアの大改革は政治、財政、経済、司法、行政、教育、軍隊などあらゆる分野に及び根本的かつ革新的であった。彼女の基本理念は『
中央集権制度を確立しなければ財政を豊かにできない』により貫かれていた。その実現に向けて着々と準備し実行に移した。現在のオーストリアのあらゆる生活領域において、マリア・テレジアによる改革が脈々と息づいていると言われている。その中からいくつか紹介する。

 
1754年の「住民調査」、いわゆる国勢調査がオーストリア帝国全土に布告された。その当時国内では天と地が引っくり返る様な騒ぎになったことは容易に想像できる。それまでは国家財政は大貴族の寄付、と言えば聞こえが良いが意地悪い言い方をすれば”お恵み”ではなかったのか?そんな財政が不安定な状況では周囲の列強にオーストリアが軍事的に対抗できるはずがない。日本に例えれば室町幕府の将軍と守護大名の関係の様なものだろう。当時有力な守護大名が群雄割拠しており、将軍家は自らの安寧を図る為守護大名を手厚く遇する必要があった。それは自然と将軍家の権威と財政基盤を弱めることになった。そんなことになったのではハプスブルク家はたちまち崩壊してしまう。そこでマリア・テレジアは国内の隅々まで君主の権力が及ぶ様に官僚制度を強化し地方の監督を厳しくした。その中央政府の強力な統制のとれた官僚機構を駆使し、国内のあらゆる地域で男・女・子供、牛、馬などの家畜までも徹底的に調査。これをもとにそれまで各々の地域の領主が勝手に税を決めていたのを廃止、国内全域に均一の税制を施行し中央政府に税が全て集まる様に改正した。この徴税制度改革により安定した財政基盤が確立され、狙い通り強力な軍隊を作ることができた。しかし徴税権は地方の領主の命綱のようなもの、マリア・テレジアはよくぞ抵抗勢力を排除してこの改革を断行したと感心する

 
司法制度にも手が加えられ、裁判所は行政から独立した存在になった。これは当時の常識からすれば斬新かつ画期的な改革と言える。当時の司法制度は全て大貴族の独断専横で決められており、はっきり言えばまともな裁判なんぞできるはずがない。それを全国統一の法制の基に、独立した裁判所が明確な基準で判断する様にしたのだからすごい改革である。マリア・テレジアは地方の領主から司法権までも取り上げたことになる。

 
教育制度にも大きく手が入り義務教育制度が導入された。マリア・テレジアは小学校を新設し全ての国民がそこで学ぶことを義務づけた。それまでは一部の特権階級のみが私的な家庭教師をつけるだけで、国民の大多数は文盲に等しかった。またウイーンの大学にも手を入れ、優秀な者には奨学金を授与し学問の奨励に努めた。一般大衆には教育なんぞ不要と考える君主がほとんどの時代ではまさに画期的な改革と言える。

 マリア・テレジアはヴァン・スヴィーデンを招聘し
医療制度にも手を加えた。当時の医学水準は極めて低くお粗末な実態を示していた。実際マリア・テレジア自身も16人の子供を産みながら6人も失うほどの未熟な医療と言わべき状況であった。病院を新設し衛生制度は画期的に改善された。彼女自身の味わった苦悩がこの改革に生かされたのだろう。

 プロイセンとの戦いの備えとして
軍隊の強化にも尽力した。ウイーンの南ノイシュタットに陸軍養成所を創設し士官を育成することにより技術と士気の向上を図った。また貧しい農民の子でも軍隊に入ることでき、しかも給料をもらうことができるようなった。兵士達は安定した生活が保証されますます士気が上がる。なるほどこれで強力な軍隊が養成できたのもうなづける。

 マリア・テレジアの改革は
宗教界にまで及んだ。敬虔なカトリック信者の彼女はできればローマ教皇庁と争いたくはなかったが、オーストリアの近代化の為には遂行せざるを得なかった。修道院の新設禁止、巡礼や儀式の回数制限、そしてあまりにも多い聖者に因んだ祝日の削減。当時祝日は1年の1/3にも達し、これでは仕事にもなるはずがない。

 
マリア・テレジアとフランツT世といえばおしどり夫婦として有名だが、この二人の家庭生活も独特であった。ここでは子供達の存在がとても大きく、シェーンブルン宮殿で子供の芝居、舞踏会や演奏会などが行われるとマリア・テレジアの子供達も登場した。多くの子供達が王宮の中で一つの芸事に熱中したり、無邪気に遊び戯れたりするのは他の王室ではみられない。シェーンブルン宮殿はウイーン市内の暗くて陰湿な王宮とは異なり、自由で極めて快適な空間であった。以降この宮殿抜きでハプスブルク家を語れぬほどの大きな存在になった。

 マリア。テレジアは夫フランツT世の死後、15年間に亘り息子ヨーゼフU世との共同統治を行なった。しかしながらプロイセンのフリードッヒ大王との接近を図る息子とはウマが合わなかった。時代も徐々に変化し彼女も次第に過去の人になっていった。
栄華を極めた彼女も世代交代の後は孤独だったらしい。1780年彼女の死を境にハプスブク家も凋落の一途をたどることになった。まさに平家物語の世界に同じ、”祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前に塵に同じ。”。(
”驕れる者久しからず”はここでは当てはまらないので割愛)
しかしながら何だかんだ言っても彼女は終世幸せだったと私は思う。ハプスブルク家の凋落と崩壊、愛娘マリア・アントーニアの非業の死などを知らず、良いところだけを見て自身の一生を終えたのだから・・・。
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