第21段  ハプスブルク家 その成り立ち Part2 * フリードリッヒV世の時代 *

 
スイス出身のさほど恵まれた家系ではないハプスブルク家が何故勢力を拡張できたのだろうか?478年もの長い間、強力な権力を持つ選帝侯を押え込み皇帝の位を維持できたのだろうか?それはハプスブルク家の独特の結婚戦略・・・政略結婚によるものである。『戦いは他国にさせよ。幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ。』・・・「オーストリア」は「ハプスブルク」と同義。ハプスブルク家は戦争ではさほどの戦果をあげてはいないが、後述の様に結婚政策がこれほど成功した例は他にはない。全盛期にはハプスブルク家はヨーロッパのみならず植民地として南米、フィリッピンなども支配、『日の没することなき世界帝国』を形成するまでに発展したのだ。偶然に偶然が重なり、また運も味方したのだが、こんなうますぎる話が現実にあったとは・・・ただただ驚くばかりである。「事実は小説より奇なり」とはよく言ったものだ。

 1308年ルドルフT世の次男アルプレヒトT世が暗殺されて以来、ハプスブルク家から国王の座は132年間遠ざかっていた。
 1440年フリードリッヒV世が国王(ローマ王)に選出されハプスブルク家は”我が手に王冠を”との悲願をかなえた。選定の理由は例によって彼が「人畜無害な能力無き者」とみなされたことによる。この時代それほどハプスブルク家は権威を失墜していた。ところが、確かに無能なこの国王は”忍耐強く丈夫で長持ち”で何と53年間しっかりと王位を守った。彼の在位中強敵・・・ハンガリー王マーチャーシュ、ブルゴーニュ公シャルル突進公、彼の弟アルプレヒトなど・・・が次々と現われたが、彼は何とか凌ぎきって相手が先に死んで自分が生き永らえたのである。それがハプスブルク家が478年の長きに亘る王位の独占の礎になったのである。その意味では選帝侯はとんだ見込み違いをしでかしたことになる。

 1452年3月、フリードリッヒV世はローマ教皇より帝冠を受けるべくローマに赴いた。以降彼はローマ皇帝と称することになる。同時に
彼はローマでポルトガル王女エレオノーレと結婚式を挙げた。裕福なポルトガル王室で何の不自由もなく育ったエレオノーレは「神聖ローマ帝国皇帝の妃」に夢見てフリードリッヒV世に嫁いだしかし現実はそれほど甘くはない。当時のハプスブルク家は貧乏で質素な、そして貧素な生活をしていた。それにうだつが上がらずやさしさを感じることのできない夫にも彼女は失望した。彼女は恵まれない結婚生活の中で5人の子供(長生したのは一男一女)を産んだが、1467年31歳の若さでこの世を去った。彼女の莫大な持参金は破綻寸前のハプスブルク家の財政を建て直すのに大いに役立った。また彼女の残した息子は『中世最後の騎士』と言われるほどの傑物で、フリードリッヒV世の立派な後継者となった。

 フリードリッヒV世は息子マキシミリアンには自分のような苦労をさせたくなかったようで、何とか息子には良い所の公女をめぐり合わせハプスブルク家を強固なものにしようと考えた。そこで
目をつけたのがブルゴーニュ公国シャルル突進公の一人娘マリア。ブルゴーニュ公国は現在のベネルクス三国をほぼ領有し、当時のヨーロッパでは高い文化水準のいわば先進国であった。そんな公国の一人娘の婚姻相手が誰になるかは誰しもが注目するところ。フリードリッヒV世は自分の息子とブルゴーニュ公の公女との婚姻を申し入れた。シャルル突進公から見れば当時のハプスブルク家は取るに足らない王家であり皇帝は名ばかりの無能な存在であることは充分承知していた。実は彼には目論見・・・取らぬ狸の皮算用と言うところか・・・があり、マリアとマキシミリアンが結婚すれば自分が皇帝になれるのではと考えていた。シャルル突進公は父親とはまるで異なるマキシミリアンを大いに気にいっていた。両家の婚姻についての基本的合意には達していたが、さすがにシャルル突進公のこの魂胆にはフリードリッヒV世は容認できなかった。暗礁に乗り上げ両家の交渉は座礁しかに見えたが、結局はフリードリッヒV世の辛抱勝ちという結末を迎えた。1477年1月、シャルル突進公はナンシー近郊のスイスとの戦いの最中陣中で没したのである。さあ大変、ブルゴーニュの隣国フランスが早速狙いを定め国境に軍を進める。そうなると孤立無援のマリアは窮地に陥り、ハプスブルク家に使者を送り両家の婚姻が決まった。マキシミリアンはブルゴーニュ公女の婿としてブリュッセルに赴き、8月にマリアとの結婚式が執り行われ彼は「ブルゴーニュ公」になったこれでハプスブルク家は一躍ヨーロッパの檜舞台に躍り出ることになるのだが、この後隣国フランスとは18世紀末までライバルとして事あるごとに争うことにもなった。

 
マキシミリアンとアンナは後世のマリア・テレジアとフランツ・シュテファンと並び称されるハプスブルク家のおしどり夫婦になる。結婚後1年足らずで王子フィリップ、ついで王女マルガリータの2人の子供に恵まれた。しかし幸せは長くは続かなかった。1482年3月彼女は懐妊中にもかかわらず狩猟に出かける夫に同行したが、落馬事故に合い瀕死の重傷を負った。3週間後2人の子供を遺産相続人に、夫を2人の後見人に指定しマリアはこの世を去った。これによりブルゴーニュ家は断絶した。マキシミリアンはその後再婚したが、単なる政略結婚にすぎず”心妻にあらず”という状態だった。マリア亡き後”よそ者”の後見人マキシミリアンへの反発は強く、彼はブルゴーニュ公国からいったん身を引きの統治を嫡子フィリップに移譲する。

 マキシミリアンがその後ネーデルランドで勢力を盛り返しブルーゴーニュでの権威を復活した頃、オーストリア、とりわけウイーンは悲惨な状況にあった。ハンガリー王マーチャシュが大軍を率いて国境を越えて襲来した。この当時東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン・トルコ帝国の権威がハンガリーにまで及び、ハンガリー軍はあたかもオスマン・トルコの前線部隊の様な感があった。ところがオーストリアを守るべきフリードリッヒV世、これがまた臆病者でさっさとウイーンから逃亡してしまった。

 外敵から神聖ローマ帝国を守るべき皇帝フリードリッヒV世がこれではたまらない。選帝侯はハンガリー・トルコ連合軍に対抗する強力なローマ王を選ぶ必要にせまられた。通常は”飾り物”であれば良いが今回はそうはいかない。
1486年マキシミリアンはアーヘンで晴れてローマ王として戴冠した。ローマ王となってからのマキシミリアンには幸運がついてまわった。なんとオーストリア深く侵入したハンガリー王マーチャーシュが病気で死亡。逆にマキシミリアン率いる帝国軍がハンガリー奥深く攻め入った。また何とほぼ同時期にチロル継承に成功し、分裂していたオーストリアを統合し掌中に収めたのである。1493年8月父フリードリッヒV世の死去に伴い、彼はマキシミリアンT世となった。1508年それまでの慣例を破り、彼はローマ教皇から戴冠されることなく自ら皇帝を宣言した。

 マキシミリアンT世は子、孫による巧みな政略結婚で他家と契りを結んだ。その結婚に偶然と幸運が後押しして、ハプスブルク家には膨大な領土が転がり込むことになる。そのあたりの事情は次章で触れる。
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