第23段 * ハプスブルク家 その成り立ち Part4 * カールX世登場 *
1517年フィリップ美公の急死により長男カールはスペインに赴き、スペイン王を継承しカルロスT世となった。名目上は母ファナがスペイン王ではあったが、狂気の母は何故か譲位の件になると正気に戻り拒否したと言う。ファナは本当に狂気だったのか、それとも世の中に嫌気をさし狂気を装っていたのか、いずれにせよ私には疑念が残る。カールは26歳の時ポルトガル王女と結婚するが、これにより後にスペインはポルトガルを併合することになった。
1519年皇帝マキシミリアンT世が死去、すると当然次期皇帝の選挙に注目が集まる。スペイン王カルロスT世、フランス王フランソワT世、イギリス王ヘンリー[世、ザクセン選帝侯の錚々たる君主が候補に挙がった。これがまた”地獄の沙汰も金次第”を地で行く凄まじい金権選挙になった。実質はカルロスvsフランソワの一騎打ちであり、最終的には選帝侯に示した条件(つまり金額)が物を言ってカルロスが満票を獲得した。この時カルロスにはフッガー家などドイツやイタリアの大商人がつき、巨額の融資により選挙に圧勝した。むろん見返りに商人達は様々な権益を手にしている。カールが使った選挙資金は82万5千ライン・グルデン、純金2トン分!とのこと。今も昔も選挙に金はかかるのが通り相場、それにしてもこんなに金を使っても手にしたい『神聖ローマ皇帝』の魅力とはまさに「黄金の椅子」、いったい何なのだろうか?1520年10月アーヘンで戴冠式が挙行され、カールX世は晴れて「(ドイツ国民の)神聖ローマ帝国皇帝」となった。この時期帝国の範囲はドイツと僅かなその周辺地域に限定されており、1512年から「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という国名が正式に使われている。
さて選挙に敗れたフランソワT世は悔しくてたまらない。「神聖ローマ帝国」は分裂状態にあったが、ここでカールが皇帝になればスペインとドイツを押さえることになりフランスは両国に挟まれ大変な脅威となる。また962年帝国発足以来ドイツ王が皇帝位を独占しており、形の上ではフランス王はあくまでも皇帝の臣下にすぎない。ところがドイツ王はお膝元のドイツすらまともに掌握できていない。一方フランスは中央集権の強力な王権を確立している。「これは許せない、フランス王こそ皇帝にふさわしい」と考えるのは当然のこと、フランソワは皇帝選挙に立候補したのだ。しかるに彼は大敗を喫した。以降彼は無節操にもローマ教皇庁、プロテスタント、オスマン・トルコ帝国などとなりふり構わず手を結び、カールX世に対する敵愾心を剥き出しにし戦いを挑む。フランソワにとってはたとえ主義・主張は異なっていても、『反ハプスブルク』で一致すればそれで良いのだ。
ローマ教皇庁にとっては「神聖ローマ帝国皇帝」は”権力が強大になってはいけない、むしろ脆弱で自分達の意のままになってもらう”存在でないと困る。彼らはハプスブルク家の脅威から権益を守る為には手段を選ばなかった。ローマ教皇をはじめ多くの聖職者はキリスト教の信仰心なんぞ既にどこぞへ吹っ飛び世俗化し堕落しきっていた。この嘆かわしい状況にマルチン・ルターらが立ち上がり、大きな宗教改革のうねりとなりヨーロッパを駆け巡ることになった。
1525年皇帝カールX世とフランソワT世はミラノの南にあるバヴィアで激突した。フランソワは自ら陣頭指揮をとるほどのいれ込み様だったが、一方のカールはスペインのマドリッドにいて戦陣にはおらず直接相対したわけではない。当初は王自ら率いるフランス軍が優勢、あと一歩でイタリア北部を制する勢いであった。ところがどうしたことか激戦の最中、不覚にもフランソワが皇帝軍に捕獲されてしまった。フランソワはスペインでカールとマドリッド条約を結びフランスへ戻った。フランスに戻るとフランソワは態度を一変、「あんな強制された条約は無効」と主張した。ローマ教皇クレメンスZ世もフランス王を支持しマドリッド条約の無効を認めた。皇帝の権勢の拡大を恐れたのである。フランス王、ローマ教皇にとっては”約束を破る”、”嘘をつく”のはお手のもの、恥も外聞もそんなものは関係なかった。 一方ハプスブルク家は歴代”正直者”、それも馬鹿がつくほど律儀者だった。しかしそのことがハプスブルク家の長期に亘る繁栄を支えたのだ。ある意味では「正直者は馬鹿をみなかった」とも言える。
イタリアの名門メディチ家出身のローマ教皇クレメンスZ世はキリスト教の信仰や布教にはまるで無関心、で、メディチ家の権益と教皇の権力拡大のみに興味があった。バヴィアの戦いの2年後フランスを支持したローマ教皇庁への報復として、カールX世は永遠の都ローマを徹底的に略奪と破壊、暴虐の限りを尽した。おまけにこの教皇は要領が悪かったのか、逃げることができず捕虜の辱めを受けた。これが悪名高き「サッコ・ディ・ローマ(ローマの略奪)」である。まるで古代ローマ皇帝、”暴君ネロ”を連想させる。この出来事はネーデルランド出身の思想家エラスムスに、「一都市の破壊、と言うよりは一文明の破壊」と嘆かせた。
東方からのオスマン・トルコの脅威もハプスブルク家にとっては頭痛の種であった。特に1529年ウイーンがオスマン・トルコ帝国スレイマン大帝率いる10数万の大軍に包囲された時は事態は深刻だった。当時ウイーンは皇カールX世の弟フェルディナンドが守るべき責を負っていた。さすがのフェルディナンドもオスマン・トルコ軍の人海戦術による波状攻撃には音を上げる。帝国の諸侯・・・この時多くの帝国諸侯が新教徒の側についていた・・・はフェルディナンドの足元を見て、様々な条件を皇帝やローマ王につきつける。あわや陥落というところで、ウイーンは突然のスレイマン大帝の撤退により奇跡的に窮地を脱した。この時ハプスブルク家の学者達は、「神の御加護」のおかげと讃えたと言う。真相は『スレイマン大帝のもとに”アドリア海での海軍大敗”の報がもたらされ、ウイーン攻略どころの騒ぎではなくなった』と言うことらしい。鎌倉時代の蒙古襲来で苦戦の幕府軍に”神風”が吹き、蒙古軍が撤退した時と状況が良く似ている。
オスマン・トルコの脅威はオーストリアのみならず、カールX世のお膝元スペインにも及ぼうとしていた。もともとオスマン・トルコは優れた陸軍を有していたが、ヴェネチアから造船術を学び強力な海軍を駆使するようになった。そうすると行動範囲も飛躍的に広がる。イタリア、スペイン、アフリカ北部の都市を襲い略奪を繰り返していた。このままではハプスブルク家の威信が損なわれる。そう考えたカールX世は1535年帝国の威信をかけて、敵の拠点「チュニス」に大艦隊を派遣した。知将ジェノヴァ提督アンドレア・ドーリア率いる優秀な海軍、勇敢なヨハネ騎士団、それに勇猛果敢なスペイン兵士・・・皇帝自ら陣頭指揮に立つ皇帝軍の士気がオスマン・トルコを圧倒した。激戦の末皇帝軍は敵の要塞を陥落し、チェニス城内の捕虜の解放に成功した。この勝利でカールX世は勇躍ローマへ凱旋し多大なる賞賛を得た。この頃が彼にとって絶頂期と言える。しかしながらこの成功を快く思わない者がいた。ローマ教皇パウルV世・・・イスラム教徒打破は素晴らしいが、皇帝の権力が増大し教皇の権威が失墜するのを恐れた。またフランソワT世・・・こちらはかつて屈辱的な敗戦を味わい、またここで皇帝に武功を立てられたのではたまらない。ローマ教皇、フランス王、オスマン・トルコ帝国は『反ハプスブルク』で利害が一致し手を結んで「ハプスブルク家」に抵抗を続けた。
とにもかくにもカールX世はフランス王とローマ教皇の押え込みに成功し、オスマン・トルコの脅威に対して小康状態にすることができた。しかし宗教改革の嵐、宗教対立は彼を大いに苦しめた。そのあたりは次章で触れることにする。