第24段  ハプスブルク家 その成り立ち Part5 * 宗教改革の嵐 *

 
腐敗の極みにあるローマ教皇は莫大な財政赤字で借金を抱えており、財政補填の為に『免罪符』を盛んに販売した。キリストの十字架における無限の償いと諸聖人の善行の蓄積のおかげで,キリストの教会につながる者の罪に対する償い、罰、苦難を教会が免除する権限をもつと考えられた。もともと十字軍遠征に際して参加者勧誘の為、従軍者には「神より罪の許しが与えられる」としたのがはじまり。ローマ教皇は免罪のための善行・祈り・巡礼・献金などを定めたが,それらはしだいに形式化していった。そしてついにこの時代ローマ教皇はなんとそれを単なる金儲けの手段として利用したのである。「免罪符を買うと罪が許され来世での救いが保証される」・・・つまりあの世での安寧をお金で買えると言うものである。信仰も何もあったものではない。ローマ教皇は俗物に成り下がっていたのである。

 ローマ教皇はフッガー家からの莫大な借金返済にせまられていた。また当時のローマ教皇レオ]世が前教皇が着手、未完のままのサン・ピエトロ大聖堂の建築資金を必要としていた。そこでドイツでの「免罪符」販売を計画、その独占販売権をフッガー家に与えた。販売収入の半分がローマ教皇のもとに送られ、残り半分はフッガー家への借金返済に充てられていたのである。

 
1517年ヴィッテンベルク大学の教授マルチン・ルターは『95ヶ条の論題』を教会の門扉に掲げた。これがいわゆる「宗教改革」のはじまりである。ルターは「人は信仰のみにより救われる」と主張、免罪符をを激しく非難した。当時の印刷技術の進歩もあり、ラテン語からドイツ語に翻訳された『95ヶ条の論題』はローマ教皇庁に失望していた民衆にあっという間に広がり支持された。1520年レオ]世はルターに破門通告状を送りつけたが、ルターは民衆の面前で敢然と焼き捨てた。ルターがローマ教皇を否定する立場を明確に打ち出したので、ローマ教皇に反発する帝国諸侯のルター支持者が徐々に増えていった。分裂していた諸侯が「反ハプスブルク」の名の下にまとまりはじめた。これがまたますます皇帝カールX世を苦しめることになる。

 
1521年ローマ教会の庇護者である神聖ローマ皇帝カールX世は反撃に出る。彼はウォルムスに帝国議会を召集しルターを喚問する。議会とは言っても現在の様な立法機関ではなく、この場合皇帝主催の単なる会議体にすぎない。この会議でカールX世はルターを激しく糾弾し説の撤回を迫る。しかしルターは断固拒否、これに対して皇帝はルターの法律上の全ての保護を剥奪した。これだけ反抗すれば、即刻逮捕、拷問、処刑となるところだが、皇帝はこれをしなかった。ハプスブルク家の歴代の君主は概ね温厚で殺戮は好まなかったのだ。またこの時期にはルター支持の諸侯も多く、実際ここではザクセン選帝侯フレデリックがルターを庇護した。宗教改革が既に「反ハプスブルク」の重要な名目になっていたことがわかる。

 
1522年ライン河流域のドイツ騎士団が宗教改革を支持してローマ教会や聖職者の堕落を批判、トーリア大司教兼選帝侯を攻撃したが翌年鎮圧された。続いて1524年西南ドイツで農民戦争が勃発、司教や諸侯に対して反乱を起こしたが1526年鎮圧された。かの前ヴュルツブルク市長で彫刻家のティルマン・リーメンシュナイダーが、農民と共に逮捕され命は助かったものの全てを失ったのはこの農民蜂起の時である。ルターは当初農民側を支持したが、農民側の要求が過激となりルターはそっぽを向いた。ルターは信仰のあり方を問題にしたが、体制の変革までは求めていなかったのである。結果としてルターは農民側を裏切ることになった。1526年オスマン・トルコ帝国軍のウイーン包囲などイスラム教徒の脅威に晒されたカールX世は、それらに対抗する為に帝国内の団結を図る必要があった。いったんシュパイアーの帝国議会で新教の布教を認めたものの、イスラム教の脅威が去ると一転して1529年2回目のシュイバアーの帝国議会で布教禁止令を出した。新教徒はこれに対し激しく抗議、以降新教徒は「プロテスタント」と呼ばれる様になった。1530年プロテスタント諸侯はシュマルカルデンで軍事同盟を結ぶ。これはドイツ諸侯が公然と皇帝カールX世に対し反旗を翻したことに他ならない。また1530年にはカールX世が弟フェルディナンドをローマ王、つまり次期皇帝に推挙したこともあり、プロテスタント側はハプスブルク家の権勢が更に強大になることに強い警戒心を持っていた。

 その後カールX世は事を穏便に収めるべく努力を重ねたが、プロテスタント側はシュマルカルデン同盟を盾に一切妥協しない。業を煮やした皇帝は
1546年シュマルカルデン同盟のリーダーザクセン選帝侯とヘッセン辺境伯の帝国追放令を出した。これがもとでシュマルガルデン戦争が勃発する。1546年から1547年にかけての戦いは統制のとれない同盟軍に対して皇帝軍の圧勝に終わった。この勝利に貢献したのが、何とプロテスタント諸侯の一人でザクセン選帝侯の分家当主モーリッツの裏切りである。このモーリッツは皇帝からの「選帝侯をザクセンから取り上げモーリッツに与える」の条件に飛びついた。ところが、プロテスタント諸侯から”マイセンのユダ”と嘲られたこのモーリッツが、後日皇帝の命取りになるのだから皮肉なものである。いとも簡単に他人を裏切る様な輩は所詮取るに足らない信用できない存在なのだ。

 シュマルカルデン戦争に勝利した
カールX世は1548年アウブスブルクの帝国議会を召集する。ここでの競技の結果、当面の暫定措置として新旧両派にて仮協定が結ばれた。協定内容はプロテスタント側がとうてい容認できない一方的なものである。しかし議場の周辺はスペイン軍が周りを固めている。そんな状況下での協議とは言っても皇帝側の絶対的優位、プロテスタント側は反対しようものなら殺されてしまうかもしれない。圧力に屈して帝国諸侯、帝国都市は皇帝自ら作成した仮協定を受け入れていった。ところが唯一帝国都市マクデブルグが敢然として拒否したのである。皇帝は新しいザクセン選帝侯モーリッツに大軍を委ねマクデブルクを包囲させた。マクデブルクは表向き仮協定を受諾、皇帝軍に対して降伏した。これで済めばカールX世の全面勝利に終わるはずだった。

 ところが
モーリッツはマクデブルクと裏取引を行なっていた。マクデブルクの恭順は皇帝を欺く為の大芝居だったのである。モーリッツはマクデブルクを包囲していた大軍をとって返し、アウスブルクに僅かな手勢と共にいたカールX世を急襲した。この時間一髪で皇帝は難を逃れた。本能寺の変で明智光秀が織田信長を急襲した時と状況が良く似ている。モーリッツの狙いは明智光秀の様な天下取りではなく皇帝の専横阻止だったので、カールX世を殺す様なことはしなかった。ローマ王フェルディナンドが仲介に入り、モ−リッツとパッサウで協定を結びとりあえず事は収まった。しかしこのモーリッツの行動により皇帝の権威は著しく失墜した。尚、モーリッツはこの一件で帝国内での確固たる地位を築くが、パッサウ協定に違反したブランデンブルク辺境伯との戦いには勝ったものの自身は命を落とした。”バチが当たった”とも言える。

 ローマ王フェルディナンドとモーリッツは交渉を重ね、ローマ・カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)の和議の条件を取り決めた。むろんカールX世の同意は取り付けてある。このようにして
1555年、「アウグスブルクの和議」は成立した。プロテスタント側の主張は全面的に認められ、両教徒は全てにおいて同等の権利を有することが定められた。帝国内の諸国の宗派は各国の君主がいずれかを自由に選択できる。「アウグスブルクの和議」では個人の信仰の自由は認められず、領民は諸侯が選択した宗派に従わなければならない。また当時各地に広まっていた新教の一派のカルヴィン派は和議の対象から除外されるなど問題があり、後の30年戦争(1618年〜1648年)の火種を残すことになった。とにもかくにも1517年ルターが『95ヶ条の論題』を提示してから38年、宗教改革の嵐はついに激流となって帝国内に浸透したのである。ついにカールX世の念願の宗教統一を果たすことはできなかった。

 
1556年失意の内にカールX世はブリュッセルで退位を表明する。皇帝位はオーストリアの弟フェルディナンド(フェルディナンドT世)に、スペイン王位は長男フィリップ(フェリペU世)に譲位した。この時以来ハプスブルク家は「オーストリア系」と「スペイン系」に分裂する。皇帝位は両系から交互につくことが定められたが、以降この約束が守られず「オーストリア系」が独占することになる。フェルディナンドは兄カールX世に対し、「ローマ王にフィリップを推挙する」との口約束をしたが実行はされなかった。フェルディナンドにすれば親の情として自分の血の繋がった息子に後を継がせたいのは当然のこと。その時にはカールX世は既にこの世の人ではなく知る由も無い。口約束なんて”あてにならないもの”の代名詞、証文をとらなかったカールX世の負け?

 
1558年9月”中世最後の皇帝”と言われた皇帝カールX世は、スペインのエストレマズラ地方の別荘で波瀾万丈の生涯を閉じた。宗教戦争、帝国内の勢力争いなどでハプスブルク家の弱体化は進んで行く。ヨーロッパの覇権はイギリス、フランス、そしてオランダへ。17世紀後半にはフランスブルボン王朝のルイ]W世の時代に絶対王政の絶頂期を迎える。そしてスペイン・ハプスブルク家は消滅し、フランスに統合されることになる。次章ではそのあたりの経緯について触れる。
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