第25段 * ハプスブルク家 その成り立ち Part6 * スペイン系とオーストリア系 *
カールX世以後のハプスブルク家は「スペイン系」が「オーストリア系」を圧倒した。ウイーンの皇帝フェルディナンドT世は新旧両教徒の紛争の調停、ハンガリー、オスマン・トルコなどへの対応に追われて手一杯である。一方フェリペU世と言えば、ローマ・カトリック(旧教)の下に一致団結する”日の出の勢い”のスペイン王国の君主である。どちらが優勢かは火を見るより明らか・・・。スペイン・ハプスブルク家はフェリペU世の時代に黄金期を迎える。
1571年スペイン王フェリペU世は「レパントの海戦」でオスマン・トルコ海軍を撃破、その名を世界に轟かせることになった。この時スペイン海軍を束ねたのがカールX世の息子でスペイン王の腹違いの弟ドン・ファン・ダウストリア・・・彼は見事な統率力でフランス、ヴェネチアなどの連合軍をまとめトルコ海軍を壊滅させた。更に1577年サン・カンタンの戦いでアンリU世のフランス軍を破った。スペインの『無敵艦隊』を有するこの時期が文句なしに絶頂期であった。
16世紀前半イグナチウス・ロヨラによりイエズス会が創設され、世界的なカトリック(旧教)の布教活動を推進していた。イエズス会は「反宗教革命」の展開に大きな役割を果たした。更に宗教裁判制度が確立し、信仰の純粋さが要求されてきた。その為かこの頃のスペインは「融通のきかない厳格なカトリック」王国と考えられていたようだ。フェリペU世にも新教への過激な弾圧など”暴君”として言い伝えられているが、全てが真実ではないらしいが詳しいことはよくわからない。この頃日本に最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルはイエズス会から派遣されている。また1584年に天正遣欧使節はフェリペU世に謁見している。
スペインの衰退がはじまるのはネーデルランドの独立戦争(1568年〜1648年)からである。もともと北部オランダはマキシミリアンT世の統治時代から不満を持っていた。そこへカルヴィン派が民衆の間に食い込み宗教の自由と民族の独立を求める動きが急速に高まった。80年に亘る凄絶な抗争の末、1648年ウエストファリア条約によりオランダは独立を認められたのである。一方南部ベルギーはハプスブルク家の傘下にとどまった。
1558年イングランド王位についたエリザベスT世は、海賊船によるスペイン船襲撃、オランダのプロテスタント勢力支援など反スペイン政策をとった。同年フェリペU世はスコットランド女王メアリ・スチュアートの処刑を期にイギリスへのアルマダ(無敵艦隊)による武力行使を決意した。当時スペイン「無敵艦隊」は世界最強の海軍であり、よもやエリザベスT世の海軍に敗れるとは誰しもが想像できなかたであろう。ところがこの「アルマダの海戦」、思いもよらぬ展開になりスペイン海軍は大敗を喫した。継いで1596年、1597年にもアルマダを編成しイングランド侵攻を試みるが失敗に終わった。これでスペインがヨーロッパの覇権をイギリスに奪回されたのは誰の目にも明らかである。
元来スペイン王家は純血の維持を鉄則とし極端な近親結婚を繰り返した。その悪影響はスペイン側に顕著に表われた。フェリペU世亡き後、フェリペV世、フェリペW世、そしてカルロスU世と3代続いた。いずれも虚弱体質で政治に無関心・・・ときては国力も衰え国内は乱れに乱れる。最後の国王カルロスU世には嫡子がなく、周辺の列強は虎視眈々とスペインを狙っていた。カルロスU世はフランス国王ルイ]W世の孫フィリップをフェリペX世として王位を継承させようとした。1700年カルロスU世がこの世を去ると、オーストリア、フランスにイギリス、オランダが加わり1701年スペイン継承戦争が勃発、1714年までヨーロッパは動乱の渦に巻き込まれた。終戦処理として1713年にユトレヒト条約、1714年にラシュタット条約が締結され、フランスはスペイン合併禁止を条件にフェリペX世のスペイン王家の継承を認められたが多くの海外植民地をイギリスへ割譲することになった。これでスペイン・ハプスブルク家は完全に消滅することになる。また同時にハプスブルク家は「日の没することなき世界帝国」の面目を完璧に打ち砕かれた。
一方16世紀後半「オーストリア系」は「スペイン系」に押されて極めて影の薄い存在であった。神聖ローマ帝国の皇帝位は手離さずにはいたが、名誉職の様なもので何の利益をもたらすものでもなかった。フェルディナドT世、息子マキシミリアンU世のいずれも10年前後の短い治世では功績をあげる間もなかった。次のルドルフU世は在位36年に及んだが、プラハの王宮に籠りきりで美術品の収集や占星術、錬金術に没頭し政治活動は何もしなかったのに等しい。危機感を持った弟マティウスは兄に譲歩を迫った。ルドルフU世は1608年ハンガリー反乱により、ハンガリー王位,オーストリアの統治権をマティアスに譲った。そのマティウスも1612年兄の死去に伴い皇帝位に就いたが、王権が弱体化している現状にはなす術もなく、嫡子を残すことなく在位僅か7年で彼もまたこの世を去った。こんな有様ではオーストリア・ハプスブルク家に過去の栄光なんぞ取り戻せるはずがない。
1619年マティウス帝の従弟が皇帝フェルディナンドU世として後を継いだ。彼は幼少の頃バイエルン地方のインゴルシュタットでイエズス会の厳格な教育を受けた。また彼の出身地グラーツから、それまで押されっぱなしだったカトリック側のプロテスタントへの反撃、いわゆる「反宗教改革」が始まった。「反宗教改革」の展開はイエズス会が中心となって繰り広げられた。彼らはカトリック教会の再建と復興のために活動し,特にドイツではカトリック教会から離れた多くの人々を教会に復帰させることに成功した。
フェルディナンドU世は「反宗教改革」の急先鋒であり、新教弾圧、カトリックの復権を強力に推進した。彼はプロテスタントからは最も手強い危険な人物と見なされていた。1618年プラハ城で「突き落とし事件」・・・ボヘミアの新教徒がマティウス帝の顧問を王宮の窓から突き落とした・・・が引き金となり、いわゆる30年戦争が勃発した。直接参戦したのはドイツ・スペイン・デンマーク・スウェーデン・フランスであるが,スペインと独立戦争を戦っていたオランダ,スペインと対立していたイギリスもこの戦争に関わった。基本的な対立の構図は、フランスvsハプスブルク家の図式である。結局奥底にはフランスの”ハプスブルク憎し”の感情がしっかりと根付いている。
30年戦争は大きく次の4つに分けられる。1618年から1624年にかけてのボヘミア・プファルツ戦争、1629年にかけてのデンマーク戦争、1635年にかけてのスウェーデン戦争、そして1648年にかけてのフランス-スェーデン戦争。30年戦争は非常に複雑な展開を見せているが、大きく言えば前半戦は皇帝率いるカトリック側の圧勝、後半戦はフランスの支援を受けたプロテスタント側の反撃が功を奏したと言える。前半最大のヤマ場は1632年ライプチヒ近郊リュッツェンでのプロテスタント軍を率いるスウーェデン王グスタフ・ルドルフと皇帝軍を率いるワレンシュタインの対決である。皇帝の信頼の厚い知将ワレンシュタイン、,“北方の獅子”として恐れられる勇将グスタフ・アドルフの戦いは熾烈を極め、僅かなところでプロテスタント軍が有利であった。しかしながらこの戦いでグスタフ・ルドルフは戦死、一方ワレンシュタインは1634年皇帝への反逆の疑いをかけられ暗殺されてしまう。スウェーデン王の死をきっかけに戦局は一挙に皇帝軍側に傾き、ドイツ全体を制圧するに至った。1635年にはプラハで講和が結ばれてスウェーデンが撤退、これでカトリック側の大勝利で落着のはず・・・だったのだが、ところがどっこいそう簡単にはは問屋が卸さなかった。
ここでハプスブルク家の宿敵フランスが、”プロテスタントの黒幕”から一転してスウェーデン、オランダと同盟を結び参戦してきたのだ。これで戦局は一変、プロテスタント側に有利に大きく傾いた。1637年皇帝フェルディナンドU世がこの世を去り、嫡子のフェルディナンドV世が後を継いだ。彼はフランスへの敵愾心を露にし奮戦したが、長期戦で膨大な死者、国土の荒廃でさすがに厭戦気分が満ち溢れ和平を求める声が大きくなってきた。1648年ウエストファリア条約が結ばれ戦争は終結した。この結果最も得をしたのはフランス、次いでスウェーデン、打撃を受けたのはドイツ、スペインと言うことになる。フランスはエルザスのオーストリア領などを獲得,スウェーデンはドイツ北部のバルト海に面したボンメルンなどを獲得し大きく勢力を拡大した。オランダとスイスの神聖ローマ帝国からの分離と独立が正式に承認されている。アウグスブルクの和議が再確認されると共に、カルヴィン派も正式に認められた。
一方スペイン・ハプスブルク家の寿命は風前の灯に、またオーストリア・ハプスブルク家の権威、つまり神聖ローマ帝国の権力の弱体化が進んだ。帝国内においてプロテスタントにもカトリックと対等の権利が保証された。ウェストファリア条約によって定められたドイツ国家体制は1806年の帝国崩壊まで維持された。しかしながらヨーロッパの覇権はイギリス、フランス、オランダに移り、17世紀後半にはフランスがブルボン王朝ルイ]W世の時に絶頂期を迎える。
この後オーストリア・ハプスブルク家はレオポルトT世、カールY世、そして女帝マリア・テレジアの時代を迎えることになる。どの様に推移していったのか、次章で触れることにする。