第27段 * ハプスブルク家 その成り立ち Part11 * 神聖ローマ帝国の解散 *
マリア・テレジアの長男ヨーゼフU世は1765年皇帝位に就くが、形の上では母との共同統治であり実質彼の治世は1780年以降と言っても良い。彼は積極的で改革意欲が旺盛、ともすれば性急で過激な一面のあった。某国の某氏にこの意欲を煎じて飲ませたいものだが・・・(笑)。”啓蒙専制君主”の代表とされるヨーゼフU世は母が躊躇したこともためらわれずに断行した。「農奴制の廃止」、「宗教の寛容令」、「裁判官の独立と地位の保証」、「拷問の廃止」、「イエズス会の解散」など・・・。ただ時として彼の政策には現実離れしていたり独善的な一面があり、皇帝自ら非を認めて撤回することがあった。皇帝はイギリスやフランスで長期間かけて醸成された理念や政策をいきなり自国に当てはめようとした。明治維新で日本政府は欧米に見習いそれこそ急進的な政策を取り入れ様としたのに同じ。ただ膿んだ状況を打破し革新的な改革を行なう為には、やはり彼の様な意気込みで遂行していかないと某国の様に何をやっているのか分からなくなってしまう。
ヨーゼフU世は外交面では失敗を繰り返している。ロシアのエカテリーナU世と組んでバイエルンに出兵し併合を画策する。ハプスブルク家の強大化を警戒した諸侯と組んでこれを阻止した。またハンガリーが中央集権を嫌っていたにも関わらず、ヨーゼフU世は全てにオーストリアの制度を適用し高圧的に支配しようとした。これに対しマジャール人は激しく抵抗し、彼はハンガリーへ適用した法令を撤回する破目に陥った。
1790年ヨーゼフU世はこの世を去り、弟のトスカーナ大公がレオポルトU世として皇帝位を継いだ。彼はモンテスキューの社会契約説の信奉者で兄同様”啓蒙専制君主”であった。この弟はやはり実行力があり、兄には無い冷静沈着さを持ち合わせ人望が高い。レオポルトU世には大きな期待がかけられていたが、1792年在位僅か2年で45歳の若さでこの世を去ってしまった。政治手腕や人望の高さなどから考えると、実に大きな損失と言わざるを得ない。皇帝夫妻には16人の子宝に恵まれ、しかもその内12人は王子だった。父に似て異才を放つ王子が揃っていたが、長男フランツはごく平凡で何の取り得も無かったそうだ。それでもハプスブルク家はカールX世の定めた「相続順位法」に従い長男フランツを皇帝に選出した。
この様にして1792年「神聖ローマ帝国」皇帝フランツU世が誕生する。フランスでは1789年”バスティーユ牢獄の襲撃”に端を発しフランス革命が勃発している。ルイ]Y世の王妃マリー・アントワネットは皇帝の叔母にあたる。その叔母が命の危機に瀕しており救出しなければならない。反革命で一致したオーストリア・プロイセンは連合軍をフランスに出兵したが、意欲充分で血気盛んなフランス義勇軍に惨敗した。皇帝は叔母の救出は出来ず、1792年10月叔母マリー・アントワネットは処刑された。結局フランス革命は成功し、絶対王政を維持してきたブルボン家は完璧に崩壊した。これはオーストリア、プロイセンなどの王政を敷いている諸国に大きな衝撃を与えた。しかしながらこの新しい奔流はもはや止めることのできないものになっていた。ハプスブルク家は衰退の速度を更に加速していくのである。
フランス革命はジャコバン党による恐怖政治などの混乱の最中ナポレオンが表舞台に登場する。1796年ナポレオンはオーストリアを破り2度ウイーンを占領した。その結果ハプスブルク家はロンヴァルディア地方、ベルギー、ヴェネツィア、クロアチア、スロヴェニアなど広大な領土を失った。1804年ナポレオンはフランス皇帝ナポレオンT世を名乗る。同年神聖ローマ帝国皇帝フランツU世は「オーストリア皇帝フランツT世」を名乗っている。事実上この時点で神聖ローマ帝国は崩壊していたとも言える。
1805年12月アウステルリッツ西方でナポレオンはロシア・オーストリア連合軍を破る。フランス、オーストリア、ロシアの3皇帝の戦いという意味で三帝会戦と言われる。翌1806年7月ナポレオンはバイエルン、ヘッセン、バーデンなど16の有力諸侯に「ライン同盟」を結成させる。「ライン同盟」は帝国議会からの離脱を宣言、これで既に実質的には崩壊していた神聖ローマ帝国の名目上の存在価値も失せた。そして1806年8月フランツU世は”神聖ローマ帝国の解散”を宣言した。
更にナポレオンはフランス皇帝としての箔をつけるべく、オーストリア皇帝にハプスブルク家の皇女を妃に望んだ。ナポレオンはその為にジョセフィーヌと離婚し、1810年4月フランツT世の長女マリー・ルイズと再婚した。彼は自分が身分の低い家の出身なので、名門「ハプスブルク」の名と血筋が欲しかったのである。マリー・ルイズとの間に産まれた王子(ナポレオンU世)にローマ王の称号を与えた。自由と古き因習打破を目指す新時代の英雄にしては、何やら旧時代的な、復古的なものを求めるアンバランスな所がある。結局最初の動機は純粋でも、自分が権力を握り何でも意のままになると保身に走り保守的になってしまうのだろうか?ナポレオンはロシア遠征失敗後に退位、1814年3月エルバ島に流される。1815年3月にエルバ島を脱出し再び皇帝に復位するが、イギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアの連合軍にワーテルローの戦いで敗れセント・ヘレナ島に流されそこで一生を終えた(百日天下)。
ナポレオン後の後始末として、1814年9月にヨーロッパの秩序回復を狙いウイーン会議が開催された。”会議は踊る。されど議事は進まず。”と言う言葉で有名なこの会議には、ロシア皇帝アレクサンドルT世やプロイセン、デンマークの君主などヨーロッパの有力政治家が集結した。各国の利害の対立で事前交渉がまとまらず、なかなか本会議開催までには至らない。ウイーンでは連日連夜舞踏会、コンサート、狩猟にうつつを抜かしていた。1815年2月遊び呆けているウイーン会議参加者達は、「ナポレオンがエルバ島脱出。パリへ進撃中。」の報を受けて顔面蒼白になった。しかし急遽話をまとめて・・・やる気があればすぐにまとまったのだが・・・ナポレオンを打ち負かした。
1815年6月にはウイーン議定書がまとまり、1848年の3月革命まで続くいわゆる『ウイーン体制』が定まった。この『ウイーン体制』は保守反動体制で、ナポレオンによって崩された秩序を回復しそれ以前の王政の時代に戻そうとする動きであった。オーストリア帝国は以前失った領土を取り戻すと共に新たな領土も得た。同時にプロイセンも領土を大幅に拡大し強大な国家となり、以降オーストリアを脅かす存在となったのである。神聖ローマ帝国の復活はならなかったが、ドイツ連邦・・・ウィーン会議の結果成立したオーストリア、プロイセン、バイエルンなど35の国家と4つの自由都市よりなるドイツの国家連合体・・・が成立した。ドイツ連邦の議長はオーストリア皇帝フランツT世が選ばれた。
オーストリア帝国内で実質権力を握っているのは宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒである。メッテルニヒは皇帝を自由に操り国政を思うがままに扱った。彼は秘密警察を駆使し、市民監視を徹底し厳しい言論統制を行なった。外交面では1815年、オーストリア、プロイセン、ロシアで「神聖同盟」を結ばせた。これは名の示す様に「キリスト教の正義・友愛の精神により各国君主が提携し平和維持をはかる」のが目的だが、実質的には自由主義運動や民族運動を抑圧する組織であった。最終的にはイギリス、ローマ教皇、トルコを除くヨーロッパの全ての君主が同盟に参加した。この同盟を彼は反動政策の象徴として利用し、帝国内の自由主義運動や国民運動を徹底的に弾圧したのである。彼は1848年の3月革命でロンドンに亡命するまで我が世の春を謳歌した。
ウイーン体制崩壊の動きは新大陸から始まった。南米、中南米ではスペイン植民地はナポレオンの時代の事実上独立していたが、ウイーン体制ではナポレオン以前の植民地に戻そうとした。南米、中南米各国は激しく抵抗し、1816年アルゼンチン、1818年チリ、1819年コロンビア、1821年ペルー/メキシコ、1825年ボリビアが相次いで独立している。またポルトガルの植民地ブラジルも1822年独立している。メッテルニヒはこれらの独立に干渉したが、イギリスの反対で不調に終わった。北米ではアメリカが1776年独立宣言を行ない、1783年イギリスより独立を勝ち得ている。1823年モンロー大統領はいわゆる『モンロー宣言』・・・南北米大陸の植民地化,旧政治体制の導入に反対,一方アメリカは,ヨーロッパの諸問題への不介入を宣言・・・を行なった。
一方ヨーロッパでは1821年ギリシャがオスマン・トルコ帝国に対して独立宣言を行ない、激しい戦闘の結果1829年独立を勝ち得た。メッテルニヒはこれにも干渉したが、イギリス、フランス、ロシアがそれぞれの思惑でギリシャを支援した為不首尾に終わった。ナポレオン没落後のフランスではブルボン家が復活し一応立憲王政が敷かれていたが、シャルル]世の反動政策に反発が起き1830年七月革命でブルボン王朝は倒れた。続いてオルレアン家のルイ・フィリップが王位に就き、立憲王政のいわゆる「七月王政」に移行した。しかしこの「七月体制」もやはり保守的な政策で民衆の反発を招き、1848年2月革命で倒れ第二共和制へ移行する。混乱の中ナポレオンT世の甥ルイ・ナポレオンが台頭し、1852年12月の国民投票により皇帝ナポレオンV世となり「第二帝政」を敷く。
1835年フランツT世がこの世を去ると、ハプスブルク家では後継者選びに頭を悩ました。それは前皇帝の長男フェルディナンドが皇帝に相応しくない器だったからである。”影の皇帝”メッテルニヒの意向が強く働き、皇帝フェルディナンドT世が誕生する。ここでも「「相続順位法」が決め手となり長子相続の原則が守られた。またウイーン体制の正統主義により長男優先が建て前である。フェルディナンド以外にも優秀な人材はいたが、メッテルニヒは煙たい存在には遠慮してもらいあくまでも傀儡皇帝が必要だったのである。その様にしてメッテッルニヒは更に13年間政治権力を一手に握り独裁体制を維持する。
1848年の3月革命でメッテルニヒは退陣し、いよいよ実質的な”ラスト・エンペラー”フランツ・ヨーゼフが登場する。その在位は68年の長きに亘るが、そのあたりは次章で触れることにする。