第28段 * ハプスブルク家 その成り立ち Part12 * ラスト・エンペラー登場 *
1848年パリの2月革命はドイツ、オーストリアに波及し各地で民衆が蜂起、同年3月ウイーンでも検閲の廃止・憲法の制定を求めて武装した学生が王宮を襲った。これが3月革命の発端である。ウイーンはこれ以降約半年間大混乱に陥り、メッテルニヒは責任をとって退陣しロンドンに亡命した。単なるお飾りにしかすぎない皇帝フェルディナンドT世では収拾がつかないことは明白で、新しい皇帝を据える必要がある。皇帝の弟フランツ・カールは就位する意思がなく、彼の長男フランツ・ヨーゼフに白羽の矢が当たった。こうして1848年12月、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフT世が誕生した。この18歳の若き皇帝の治世は68年の長きに亘ったのである。
最初の10年程は有能な政治家シュヴァルツェンベルクや、ラデッキー、イエラチュッチェなどの有能な将校の奮闘で、皇帝は直面する難局を乗り切った様にに見えた。600年にも及ぶハプスブルク家の治世はさすがに長くここに来て膿が一挙に現われた様なもの、そのツケが次から次と”ラスト・エンペラー”フランツ・ヨーゼフT世にずしりと重く圧し掛かってきたのである。
1852年北イタリアのサルディニア国王ヴィクトル・エマヌエルU世は宰相カヴールを起用した。カヴールはナポレオンV世に接近し、1858年7月両国は密約を結んだ。フランスを味方につけたカヴールは1859年4月対オーストリア第2次独立戦争を開始、同年6月”ソルフェリーノの戦い”でフランス・サルディニア連合軍は皇帝軍に大勝した。これで戦勝国はロンバルディアを獲得した。ハプスブルク家は南チロルを除くイタリアの領土を失うことになったのである。更にイタリアの統一は進む。1860年3月にはパルマ・モデナ・トスカーナなど中部イタリアを併合。またシチリアのガリバルディがシチリア、ナポリを平定しサルディニア王国に献上。その様にして1861年3月イタリアの統一が成った。
プロイセンの「小ドイツ主義」・・・不安定なオーストリアを除きその他で「小ドイツ」を構成し、オーストリアとは連邦を樹立する。オ−ストリアの「大ドイツ主義」・・・ウイーンを首都としプロイセンも含めて広大なドイツを構成する。この2つの国はドイツの覇権を巡り鋭く対立した。1866年6月両国はケーニヒグレーツで激突、プロイセンの”鉄血宰相”ビスマルクに翻弄されオーストリア軍は大敗を喫する。これでオーストリア帝国はイタリアの領土の大半を失った。更にビスマルクは1871年ナポレオンV世との戦いに勝利し、プロイセン主導の「ドイツ帝国」・・・ドイツ統一を成し遂げた。ハプスブルク家は完璧にドイツからはじき出され、オーストリア帝国は「ドイツでもない」、「神聖ローマ帝国でもない」国家として存在することになった。ここで私は、”オーストリアはもともとドイツ(神聖ローマ帝国)の一部、それがプロイセンとの争いに敗れドイツから締め出された!”ことをようやく理解することになる。
その結果オーストリア帝国は政治の中心を中欧・東欧に移すことになる。当時のオーストリアはドイツ人・ハンガリー人など10を超える多民族国家であり、常に民族紛争、宗教紛争の火種を持っていた。特にマジャール人を主とするハンガリーは、宗主国オーストリアに対して最も強力な反政府運動を展開した。オーストリアはソルフェリーノの敗戦後、ハンガリー各州に権限を委譲したもののハンガリーは納得せず抵抗を続けた。そしてついにケーニヒグレーツの敗戦後、1867年にマジャール人と和解(アウスグライヒ)し、オーストリア=ハンガリー二重帝国が誕生した。この二重帝国の皇帝はフランツ・ヨーゼフT世であるが、各々の国家は外交、防衛、財政以外で独自の政策をとることができる様になった。つまり国内政治についてハンガリーは独自の政府と議会を持ち意思決定可能、つまり自治権を獲得した。事実上独立国と言っても良い。それでも両国が完全に切り離されなかったのは、帝国内の多民族間の対立を食い止める為とロシアの脅威への対抗の為に相互協力が不可欠だったからである。
そうなるとボヘミア(チェコ)は心中穏やかではない。「何故マジャール人だけなのだ。何故チェコ人には与えられないのか?」 1879年ボヘミア出身のタ−フェが帝国首相に就任、スラブ民族寄りの政策をとると民族抗争は激しくなった。特に「言語令」・・・チェコ語をドイツ語と対等の扱い公用語とする。更に1897年の「新言語令」はより過激で、「チェコの全ての官吏はドイツ語とチェコ語を理解できなければならない」と定めた。これでオーストリア全体が大混乱に陥り撤回する破目になった。いつ何が起きてもおかしくない状況は続いたが暴発することはかろうじて無かった。ボヘミアもハンガリー同様一国で独立していくには基盤があまりにも脆弱で危険が伴い、やはり「ハプスブルク」という大きな傘の下にいて独自性を発揮した方が安全と考えたからである。一触即発、崩壊寸前のオーストリア帝国を何とか繋ぎ止めていたのは、皇帝フランツ・ヨーゼフT世の存在があったからである。それはハンガリーもボヘミアも不満の矛先をウイーンの政府に向けていたが、皇帝に対しては畏敬の念を持ち続けたのである。
フランツ・ヨーゼフT世は母でフランツ・カールの妃ゾフィーには頭が上がらなかったが、自らの結婚に関しては自分の意思を押し通した。皇帝はバイエルンのヴィッテルスバッハ家の次女エリーザベトにご執心で、同じヴィッテルスバッハ家出身の母はしぶしぶ認めざるを得なかった。さすがにゾフィーは怒り心頭で事ある毎にエリ−ザベトに辛く当たった。この様な経緯もありこの二人の女性の関係はついにうまくいかなかった。エリーザベトは「シシィ」と呼ばれハンガリーでは絶大な人気があった。一方皇帝は極めて評判が悪かった。後世ブダペストでエルジュベート橋の名は今でも残っているが、皇帝の名をとった橋の名は既に無い。ハンガリーに縁も所縁も無い「シシィ」がハンガリーびいきだったのは、ハンガリーを徹底的に嫌ったゾフィーへの対抗意識、つまり”反ゾフィー”からきたのであろう。1867年にハンガリー=オーストリア二重帝国が成立したのには、こうしたエリーザベトの想いが強く働いたことは容易に想像できる。
フランツ・ヨーゼフT世は呪われたかの如く次々と不幸に襲われる。また”ヨーロッパの火薬庫”バルカン半島で大爆発が起き第1次世界大戦へと繋がっていく。そしてかつて栄華を誇った名門『ハプスブルク家』もついに終焉の時を迎える。そのあたりの事情は次章でふれることにする。