第30段  神聖ローマ帝国 その成り立ち Part1 * 西ローマ帝国の復活 

 
それにしても『神聖ローマ帝国』とは何とも紛らわしい国名だろうか?前段までヨーロッパの名門「ハプスブルク」家の足跡を追ってきた。1273年「ハプスブルク」家の始祖ルドルフ・フォン・ハプスブルクが『神聖ローマ帝国』皇帝に就いてから、130年の空白を除き1806年の解散まで皇帝位をほぼ独占し続けた。「ハプスブルク」家を通して『神聖ローマ帝国』も合わせて見てきた様なものである。しかしながら”『神聖ローマ帝国』とは何か”の問いかけに対して、私はまだ充分な知識を持ち合わせているとは言えない。何が「神聖」なのか?何が「ローマ帝国」なのか?どのような経緯でこの様な『国家』が成立したのか?何故この様な『国家』を、誰が、何の為に必要としたのか?こんな観点から『神聖ローマ帝国』を誕生から解散に至る過程を考察してみることにする。

 紀元前27年アウグストゥスが初代ローマ皇帝につき共和制から帝政に移行したのが(古代)「ローマ帝国」の始まりとされる。2世紀初めにはヨーロッパ全土、北アフリカ、中東の一部に領土を有する大帝国となったが、さすがの大帝国も4世紀には衰退し
395年に東西ローマ帝国に分裂した。コンスタンチノーブル(現在のイスタンブール)を首都とする”東ローマ帝国(ビザンツ帝国)”と、ローマを首都とする”西ローマ帝国”に分かれた。テオドシウスT世・・・391年キリスト教を国教とする・・・は自らの死に際し東西の2つに帝国を分け、長男に東を次男に西を与えて分割統治させた。テオドシウス帝はあくまでも”分割”のつもりだったが、両国は完全に袂を分かちこれ以降各々対照的な運命を辿ることになる。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は強大な一つの王権の基に栄枯盛衰を繰り返しつつ、1453年の滅亡まで1000年以上継続した。一方西ローマ帝国は375年に始まるゲルマン民族の大移動による諸部族の侵入で皇帝の力は弱まり、476年西ローマ帝国は滅亡した。その後800年フランク国王カール大帝がローマ教皇レオV世により皇帝戴冠、『西ローマ帝国』の名が再び甦ることになる。この『西ローマ帝国』は、962年「帝国」、1034年「ローマ帝国」、1157年「神聖帝国」、1254年「神聖ローマ帝国」、1512年「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と名を変えつつ、1806年にハプスブルク家のフランツU世が”神聖ローマ帝国解散”を宣言するまで存続した。

 さて476年の西ローマ帝国の滅亡前後、その領域は乱れに乱れ混迷の度を深めていた。
481年ゲルマン民族の一つフランク族が現在のフランスを中心として「フランク王国」を建国した。最初に王国内の諸部族を統一したのはメロヴィング家のクロビスであるが、クロビスの死後息子達の分割統治により内紛が生じ次第に衰退した。次にカロリング家が台頭してくる。751年宰相ピピン(小)ローマ教皇ザカリアスの承認を得てクーデタを起こし、国王フレデリックV世を廃位に追い込む。カロリング家のピピン王の誕生である。ローマ教皇は王家交替を認めるのと引き換えに、”ランゴバルド王国討伐と領地寄進”を条件とした。この時ピピンが寄進した領地が後の「ローマ教皇領となる。ピピンの死後「フランク王国」は長男カールと次男カールマンに分割相続されたが、カールマンの早世によカールは「フランク王国」を単独支配することになる。カールは快進撃を続けザクセン、バイエルン、ボヘミア、イタリア、スペイン東部と領土を拡大した。かつての古代「ローマ帝国」の再来と言ってもよいほどの勢いである。

 当時のローマ教皇レオV世の時代、権力基盤は脆弱でローマ教会は分裂の危機に瀕していた。更に西ローマ帝国滅亡後ローマ教会は東方のコンスタンティノーブル教会(後のギリシア正教会)に押され、ローマ教皇の地位の優位性も危うくなっていた。そのような時にゲルマン民族の中から強大な勢力を持つ一族が出現した。ローマ教会にとっては願ってもないことである。そこで
”キリスト教による王権拡大”というこませを仕込む。教皇権威回復の為にはフランク国王カール(大帝)を味方にする必要がある。教皇は”『西ローマ帝国』の復活”を計画する。カール大帝を『西ローマ帝国』皇帝に推挙した。王権と教皇権の利害が一致したのである。但し常に利害の一致をみていたのではなく、これ以降教皇、皇帝、諸侯、聖職者などの思惑が入り乱れ争いが絶えることはなかった。ローマ教皇権の確立、及び古代ローマ帝国の復活とキリスト教帝国の創建」という壮大な夢をローマ教皇(教会)は持ち続けのである。この夢が様々な場面で、そして様々な形でヨーロッパの歴史に常に付き纏うことになる。言い換えればヨーロッパの人々の体内には”ヨーロッパ統一国家を実現した古代「ローマ帝国」”と言う誇り高き遺伝子が脈々と受け継がれているのではないだろうか?現在ヨーロッパ連合(EU)という形で大ヨーロッパの実現を目指しているが、この壮大な夢を引きずっているのではないだろうか?

 当時東西ローマ帝国分裂時の経緯から、未だに東ローマ帝国が西ヨーロッパの宗主権を有するとされていた。とすれば『西ローマ帝国』の復活には東ローマ帝国の承認が必要なのである。この件は後回しにして、
800年12月のクリスマス当日、ローマのサン・ピエトロ大聖堂でカール大帝の皇帝戴冠式が行なわれた。ローマ教皇レオV世の手でカール大帝の頭上にうやうやしく王冠が載せられた。晴れて『西ローマ皇帝』カールT世が誕生した。かつて聖職者が皇帝を選任したことはない。しかし今回はまるで逆である。ローマ教会の理屈はこうである。「コンスタンティヌスの寄進状」・・・ローマ皇帝コンスタンティヌス大帝がローマ教会に帰依し、ローマ帝国の西半分をローマ教会に寄進する・・・を大上段に振りかざし、「教皇が皇帝を選任し、皇帝をローマ教会の保護者に任命する。ローマ教皇領は皇帝の権限の及ばぬ主権国家とする。」ことをカールT世に認めさせた。(18世紀になり「コンスタンティヌスの寄進状」は偽者であることが判明した。)ローマ教皇はローマ帝国の西半分を領有するが、教皇自身が皇帝になることはできない。そこで教皇の”代理人”として皇帝を任命し、”代理人”たる皇帝はローマ教会を保護すると共に領土を治める義務があると言う理屈なのだ。この時戴冠による教皇権の確立がなされたとも言えるカールT世がどの様な想いで教皇から戴冠を受けたか知る由も無いが、広大な領土を支配していくにはどうしても”ローマ教会の宗教的権威を必要したのだ。

 
カールT世は810年から812年にかけてビザンツ帝国との交渉で皇帝承認を取り付けた。主な合意内容は、「ビザンツ帝国はカール大帝を皇帝として認める。カール大帝のヴェネチアを除く北イタリアの支配権を認める。南イタリアとシチリアはビザンツ帝国の支配下におく。中部イタリアは従来通りローマ教皇領とする。」である。これで『西ローマ帝国』の復活が成った。ローマ教会の思惑通りの復活でもある。しかしながらこの先すんなりローマ教会の筋書き通り進むはずがない。すんなり行ったのではつまらない。波瀾万丈の展開が繰り広げられる。

 よく考えると『西ローマ帝国』と称するからには、皇帝は本来ローマに腰を据えるのが本筋であろう。
カールT世による『西ローマ帝国』復活は”パックス・ロマーナ(ローマによる平和)”の再来と言える。と言うことはますます帝国の首都はローマでないといけない。いずれ皇帝はローマへ戻り帝国を治めるべきなのだ。この”ローマが世界を支配する”と言う中世的帝国理念が終始ヨーロッパの歴史を激しく揺さぶるのである。その後歴代のドイツ帝国皇帝は「イタリアを支配せずに皇帝とは言えぬ」とイタリア政策に力を入れることが多かった。またフランス国王もドイツに奪い取られた皇帝位を取り戻そうとイタリアに狙いを付け侵食を繰り返した。このドイツとフランスのイタリアを巡る争いがヨーロッパの覇権争いとも絡み延々と続いていく

 814年カールT世がこの世を去ると、長男ルードヴィッヒT世が教皇ステファヌスV世からランス大聖堂で皇帝戴冠を受けた。ルードヴィッヒT世の治世は順調に840年まで続いた。840年彼がこの世を去ると、3人の息子の激しい争いの末に前皇帝の領土は分割相続された。843年ヴェルダン条約により長男ロタールT世は皇帝位とイタリア、ロートリンゲン、中部フランクを、三男ルードヴィッヒU世は東フランク(=ライン以東)を、四男カールU世は西フランク(=ライン以西)を領有した。
カールT世が築いた世界帝国はいとも簡単に崩れ去るのである。あまりにも広大な領土の為にもともと国家としてのまとまりがない上に、ライン河、アルプス山脈と言う自然環境による風俗、習慣等の違いが存在する。その様な違いが異なる民族感情を生じさせ、後のドイツ、イタリア、フランスの基礎ができあがったのである。

 まず中部フランクがロタールT世の子ルードヴィッヒU世の後に断絶する。西フランクはカールU世の末子カールマンの死後事実上断絶する。残る
東フランクのカールV世が西フランクも掌中にし、皇帝となり一時的ではあるが世界帝国が復元する。しかしながらカールV世は帝国内の部族の反乱やノルマン人(バイキング)、マジャール人などの異教徒の侵略に苦しめられる。ついにノルマン人がパリを包囲し、皇帝カールV世はノルマン人に大敗北を喫する。皇帝は退位を余儀なくされ、887年皇帝の甥アルヌルフを東フランク王に選出する。このアルヌルフが896年”ローマ教皇に戴冠された”最後の『西ローマ帝国皇帝』となった。899年皇帝アルヌルフの子ルードヴィッヒが幼くして東フランク国王を継承するが、911年幼王はこの世を去り東カロリング家は断絶する。西カロリング家は既に断絶同様の状況にあり、これでカール大帝に始まるカロリング家はとどめを刺されたのである。

 カロリング家の断絶を受けて皇帝”選挙”が行なわれザクセン王朝が誕生する。
ザクセン家を通して『ローマ帝国皇帝』を名乗ることはなく名無しの「帝国」であった。ザクセン家の断絶後、ザリエリ家のコンラートU世が皇帝位を継承する。そのあたりの経緯を次章で触れる。
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