第33段  神聖ローマ帝国 その成り立ち Part4  神聖帝国の出現 *
 
 嫡子の無いハインリッヒX世はこの世を去る前にシュウタフェン家に王位を譲ろうとした。しかしシュタウフェン家に王位が渡れば王権の強化に繋がるとして諸侯が反対し、
ズップリンゲンベルク家のロタールV世をドイツ王に選出した。シュウタフェン家はこれに反対し、10年に亘る内戦の末ロタールV世が勝利した。1131年ロタールV世はローマ教皇インノケンティウスU世に臣下の礼をとり、1133年念願の皇帝位に就く。しかし5年後に皇帝がこの世を去るとまたもや後継争いが起きる。ヴェルフェン家のハインリッヒ傲慢公が名乗り出るが、バイエルン、ザクセンを領有するヴェルフェン家はあまりにも強大すぎる。諸侯はハインリッヒ傲慢公を排除して、シュウタフェン家のコンラートV世をドイツ王選出した。 この結果シュウタフェン家とヴェルフェン家の争いは一段と激化する。更に皇帝位争いに敗れたヴェルフェン家は教皇を中心とする反皇帝勢力と手を結ぶ。これが13世紀になりイタリア内にて皇帝党と教皇党の激しく争い、イタリアの分裂を加速することに繋がっていく。

 
コンラートV世は嫡子無く1152年この世を去る。母方にヴェルフェン家の血をひくフリードリッヒT世(赤髭王)がドイツ王に選出された。このドイツ王は”バルバロッサ”と呼ばれたが、”バルバロッサ”とはイタリア語で”赤髭”を意味する。1155年バルバロッサは皇帝位に就く。皇帝は”皇帝による世界支配”という中世帝国理念を生涯を通じて追求した。これが故に皇帝とローマ教皇、ヴェルフェン家のハインリッヒ獅子公、ロンバルディア都市同盟が争い続けるのである。

 ロンバルディアはミラノを首都とするイタリア北部の州である。ここでは貨幣経済が浸透し多くの都市が繁栄し潤っていた。イタリア王でもある
バルバロッサは当然の如くロンバルディアに狙いをつける。彼は自分をイタリア王と認めないロンバルディアに対し、合計6回のイタリア遠征を行なった。第一次から第三次のイタリア遠征にはハインリッヒ獅子公がバルバロッサに加勢している。表面上はシュウタフェン家ヴェルフェン家が和解している様に見えた第一次イタリア遠征後、バルバロッサはコンラートV世時代に与えたバイエルンをバーベンベルク家から返還させる。そしてバイエルンからオーストリアを切り離した残りの領土をハインリッヒ獅子公に論功行賞として付与した。オーストリアを改めて公爵領としてバーベンベルク家に付与したその時は取るに足らぬ弱小伯爵の「ハプスブルク」家が、よもやオーストリアを拠点として『神聖ローマ帝国』の皇帝位を長期に亘り独占するなどとは・・・!このオーストリアが”ヨーロッパの歴史の鍵を握る”ことになるとは誰も予想できなかった。

 
1158年ボヘミア王ウラディスラフU世が先陣を努める皇帝軍10万がミラノを襲う。ミラノは貨幣鋳造権放棄などの条件を呑み降伏した。更に皇帝はイタリアのロンカール平原にて帝国議会を召集、ロンバルディアの14都市にバルバロッサの国王大権を認めさせた。14都市全てに一々国王大権を行使するのはいかにも面倒なので、代わりに各都市に年3万ポンドを納めることを命じた。さすがに年3万ポンドの負担はあまりにも熾烈すぎた。教皇党の都市のみならず皇帝党の都市まで一致団結しロンバルディア都市同盟を結成、”反バルバロッサ”の戦いを挑む。教皇ハドリアヌスV世が死去、後任にアレクサンドルV世が就きやはりバルバロッサに対抗する。ミラノは新教皇を支持し、またもやバルバロッサに反旗を翻す。1162年3月バルバロッサはミラノを包囲し、降伏後徹底的に街を破壊した。しかしながらこれ位ではミラノの抵抗は一向に止まず、ベルガモ、クレモナ、それに皇帝派都市のロディなどが呼応してますます反皇帝勢力は意気軒昂である。これにはさすがのバルバロッサも手を焼くことになる。

 それに加えて
1176年の第4次イタリア遠征では、ハインリッヒ獅子公が皇帝のイタリア政策に異議を唱え参戦を拒否した。バルバロッサが4歳の息子ハインリッヒを共同統治者としてドイツ王に据え、シュタウフェン家の威光をドイツ内外に見せつけた。このこともハインリッヒ獅子公を刺激したのだ。するとハインリッヒ獅子公に呼応して多くの諸侯が反旗を翻した孤立したバルバロッサは、止むを得ず非合法であった傭兵部隊を主力として第4次イタリア遠征を行なう。以降皇帝のお墨付きを与えられた傭兵部隊が中世ヨーロッパの戦さにおいて主役として登場することになる。

 
第4次イタリア遠征でバルバロッサはレニャーノの戦いでロンバルディア都市同盟に完敗する。怒り心頭のバルバロッサは「最大の敗因はハインリッヒ獅子公にあり」と決めつけた。ザクセンの”反ハインリッヒ獅子公勢力”も同調し、1180年ハインリッヒ獅子公は帝国追放となりイギリスに亡命する。これで勢いのついたバルバロッサは更に強攻策をとる。公爵領、伯爵領の整理統合を断行し諸侯の数を減らしたのである。このような強引とも思える策が成功したのは、やはりハインリッヒ獅子公という”目の上のたんこぶ”を血祭りにした効き目が大きい。抵抗勢力諸侯の首根っこを押さえたも同然である。某国の某首相もバルバロッサの様に保身を考えずに抵抗勢力をバッサリと切り捨てる覚悟がないと構造改革なんぞ夢のまた夢

 1155年の皇帝戴冠に際しロタールV世の例に従い、バルバロッサは教皇ハドリヌスW世の馬の鎧を支え臣下の礼をとった。これだけでも充分に怒り心頭なのに、教皇は調子に乗って高圧的な態度に出る。1157年教皇書簡で「帝国は教皇の封土」と宣言したのだ。バルバロッサは宰相ライハルト・フォン・ダセルの進言により、凄まじい反教皇政策を打ち出す。『新約聖書・ルカ伝』第22章38節に出てくる”2振りの剣”・・・教剣、政剣・・・を理論的根拠とした。
両剣共に神より発せられ、各剣は神より直接その帯剣者に与えられる。政剣を与えられた皇帝は教権を持つ教皇と対等な立場にある。曰く教皇には初めから世俗権力へ介入する権利がない。皇帝は神から直接世俗の統治を委託されている。即ち皇帝は神に直接選ばれた存在である。

 バルバロッサはこのことを明確に示す為に『
神聖帝国』と名付ける。1157年3月の皇帝公文書の中に『神聖帝国』が初めて使われる。『神聖』と言う表現は”世俗権力が教皇による神権政治の断固拒否の決意表明”と受け止めることができる。これ以降『神聖帝国』は帝国の正式名称として確固たる地位を築くことになる。しかしながら依然として「ローマ」はまだ出てこない。おそらくバルバロッサには、神より直接選ばれた「神聖な」、かつての「ローマ」帝国の様な広大な領土を所有し絶対的な支配権力を持つ”世界帝国”への道はいまだ志半ば と言う想いがあったのではないだろうか?

 ドイツ国内を押さえたバルバロッサは、”
『神聖帝国』皇帝は聖地エルサレムを異教徒から解放しなければならない”と言う熱き想いを持つ。彼にしてみれば十字軍の成功でヨーロッパに”真の”世界帝国を実現できる。1190年バルバロッサはフランス王フィリップ尊厳、・イギリス王リチャード獅子心王の3人で編成された10万の軍を率いて第3回十字軍遠征を行なう。ところがバルバロッサはタウロス山脈の麓のサフレ川でなんと敢えなく水死してしまう。すると十字軍は総崩れとなり敗走した。世の中に名声が轟いたの英傑にしてはあっけなく情けない最期である。

 1190年皇帝フリードリッヒT世が最期を遂げると、息子
ハインリッヒY世がドイツ王となり翌年皇帝位に就く。皇帝はシチリア王国ルッジェーロU世の娘コンスタンツァを皇妃に迎えた。シチリア王国の最後の国王となるグリエルモU世には嫡子が無く、コンスタンツァが唯一の相続人である。と言うことはいずれシュタウフェン家はシチリア王国を手に入れることができる。実際に1195年皇帝はシチリア王国を手に入れた。皇帝は領土拡大のみならず、ローマ教皇を北イタリアとシチリアの両方から挟み撃ちできる。これには教皇もたまったものではない。ところが運命は気まぐれで、片方に幸運が偏り続けるということはなかなか無いらしい。

 
1197年9月皇帝ハインリッヒ六世がシチリアで急死、状況は一変し波乱の展開となる。そのあたりは次章で触れることにする。
ペンペン草

トップ アイコン
前の段ヘ

トップ アイコン
ペンペン草
トップヘ

トップ アイコン
次の段ヘ