第32段  神聖ローマ帝国 その成り立ち Part3  カノッサの屈辱 *

 1039年
ハインリッヒV世はドイツ王になるが、皇帝位についたのは7年後の1046年のことである。一時的ではあるが皇帝が空位、つまり「ローマ帝国」はなく「ローマ王国」として存在した。ハインリッヒV世は皇帝戴冠するまで「ローマ王」を名乗る。後に神聖ローマ皇帝位継承者がローマ王と称するのはここに由来する。

 
ハインリッヒV世は父を超えるほどの中世ドイツの大物支配者であった。もともとにフランケンに加えて「相互相続契約」などによりバイエルン、シュヴァーベンを掌中に収める。更にはハンガリーも支配下においた。イタリア王としても”やりすぎでは?”と思えるほど強権を揮った。トスカーナでの不穏な動きへの弾圧と腐敗の極みにあったローマ教皇庁の粛正である。

 当時トスカーナは皇帝の統治を全く無視のボニフォツィオが支配していた。そのボニフォツィオが暗殺されると、抑圧されていた司教達が反撃に転じフィレンツェなどの都市で暴動が起きる。ボニフォツィオの妻ベアトリーチェは実家ロレーヌ王家からゴッドフレードを夫として迎えた。この新トスカーナ公は暴動を鎮圧し、皇帝のことなど委細構わず好き勝手に取り仕切った。皇帝は大いに怒り1055年アルプスを越えてトスカーナを襲う。ゴッドフレードは尻尾を巻いて逃亡、ベアトリーチェと3人の子供は取り残される。ベアトリーチェは長女マチルデを連れて皇帝にトスカーナ領の安堵を願い出るが、皇帝はこの願いを無視し二人をドイツに連行した。更に悲運は続きマチルデの弟と妹が病死したのだ。
この出来事がマチルデに皇帝への復習を誓わせ後の『カノッサの屈辱」へと繋がっていくのである。

 また当時ヨーロッパ各地の司教領は歴代皇帝の手厚い保護により潤っていた。特にドイツの司教領は伯爵領並の大きな権限を有して”おいしい”地位となっている。そこに諸侯が目をつけ、司教などの高位聖職者は諸侯の次男、三男などで独占されるようになる。皇帝の目が届かないところでは、ローマ教皇庁をはじめ高位聖職者が聖職売買、聖職者妻帯など乱脈のかぎりを尽くしていた。これには
さすがに我慢の限界もあり、教皇庁内部からも改革運動が巻き起こる。発端はブルゴーニュのクリュニー修道院である。ここから「クリュニーの改革運動」と名付けられた。この時教皇庁内部でもクリュニー派の修道士イルデブランドが改革運動を行なっていた。このイルデブランドが後に『カノッサの屈辱』で大きな役割を果たすことになる。皇帝はローマ教皇庁の綱紀粛正と完全支配を狙い、この改革運動を積極的に支持した。ところが改革運動の主旨は世俗権力への対抗であるから、いずれ皇帝とは対峙するのは必然の成り行きと言える。

 
ハインリッヒV世は1056年に急死、わずか6歳の幼いハインリッヒW世がドイツ王となる。むろん政務をとれるはずもなく、母アグネスが摂政として国家を背負うことになる。しかしながらハインリッヒV世という強力な支配者亡き今、イタリア、ドイツで諸侯が怪しい動きを見せる。逃亡していたゴッドフレードがイタリアに舞い戻りあれこれ画策する。改革運動を陰で操り、ついにはローマ教皇庁の実権を握る。ハインリッヒV世の息のかかった教皇ヴィクトルU世がこの世を去ると、何とゴッドフレードの実弟が教皇ステファヌス]世に就く。この新教皇の選出は皇帝政府(幼帝と摂政)を全く無視して行なわれた。更にこの新教皇は幼帝を廃位して実兄ゴッドフレードを皇帝位に就けようとしたが、これは1年後の教皇ヴィクトルU世の急死で企みもご破算となる。次の教皇選出でもまた皇帝政府を全く無視して行なわれた。新教皇ニコラウスU世は”枢機卿によるコンクラーベ(相互選挙)で教皇選出を行なう”と言う教皇令を出す。皇帝政府は教皇令を拒否し争いは続いた。その次の教皇選出でも同様に皇帝政府は無視され続けた。馬鹿にされたものである。

 ”ローマ教皇庁の皇帝支配から抜け出そう”とする動きには
「イルブランド」と言う仕掛け人の用意周到なお膳立てがある。彼はレオ\世から25年六代の教皇に仕え枢機卿にまで昇進していた。苦節25年自らの意に沿わないゴッドフレードやローマ貴族をうまく付き合いながら、土台の腐ったローマ教会の立て直しを図ったのである。ゴットフレードが死去すると、”頃も良し”とばかりに表舞台に姿を現した。ついに教皇グレゴリウスZ世として皇帝との争いに臨むことになる。

 幼帝ハインリッヒW世と摂政アグネスは”ローマ教会にはなめられる”は、”諸侯にはいい様に弄ばれる”で散々な目に遭う。幼帝は成長しマインツ大司教の縁続きのベルタを妻に迎える。1069年ヴォルムス諸侯会議でハインリッヒW世は結婚解消を主張したが軽くあしらわれた。しかしこの
妻ベルタが皇帝と協力して、”皇帝権の再建”を目指して教皇、諸侯と対決することになる。皇帝は友人を集め側近グループを作る。”オストマルク辺境伯の拘留”、”バイエルン公領の没収と側近のヴェルフェン家への付与”など荒っぽいことを次々と行なっていく。ザクセンにも目を向けるがザクセンが当然反発する。ここぞとばかりに皇帝は戦いを仕掛けるが、皇帝の義兄シュヴァーベン公が皇帝の勢力拡大を恐れて難色を示す。そんな按配ではザクセン鎮圧軍の足並みが揃わず、この反乱の決着は曖昧なものとなった。結局皇帝の権威失墜を世に知らしめただけにすぎない。

 この機会にローマ教皇グレゴリウスZ世が動く。
1076年1月8日教皇は皇帝に対して”教皇への服従”を要求する。一方皇帝は同年1月22日ヴォルムスにドイツの司教24人を招集し、教皇のスキャンダルを理由にグレゴリウスZ世の廃位を決定させたそのスキャンダルとは・・・「主役はハインリッヒV世の時代に母ベアトリーチェと共に幽閉されたトスカーナのマチルダである。彼女はゴットフレートの死後、トスカーナを守る為ゴットフレートの息子と結婚する。しかしこれがまたとんでもない輩で、教皇に結婚解消を直訴する。教皇はこれを認めたことから、2人の不倫がまことしやかに噂される様になった。」 むろんこのスキャンダルの真相は誰も知るよしもない

 これでいよいよ役者が揃う。「憎っくき仇の息子の度重なる暴挙」、「不倫の噂」・・・
複雑に絡み合った人間模様、どろどろした愛憎ドラマ『カノッサの屈辱』の幕が開くドイツの修道士ランペルトが書き残しているが、教皇が諸侯に宛てた書簡を基にランペルトが脚色を加えたと言われている

                   * カノッサの屈辱 全一幕 *

 
1076年2月22日教皇グレゴリウスZ世は皇帝ハインリッヒW世の暴挙に対して、皇帝の「破門」と言う”伝家の宝刀”を抜いたのである。さすがにこれはドイツ中に激震が襲う。名目上の主君とは言えあからさまに皇帝を倒すには大義名分が無い。しかるに”皇帝破門”となれば何の遠慮もいらない。事実諸侯の中には皇帝廃位と新国王擁立の動きがあった。これには皇帝もぎりぎりにまで追い込まれ、シュパイヤーの城に閉じこもらざるを得なかった。残された道は教皇の許しを得るしかない。そう決意した皇帝は1076年12月妻ベルタと息子コンラートの3人で隠密にドイツを脱出、冬のアルプスのモンスニ峠を越え決死の覚悟でイタリアへ赴く。
カノッサ城・・・マチルダの居城・・・の門前に3人は立った 皇帝一家は雪の中で3日間、羊毛の長衣のみで裸足のまま寒風吹き荒れる門前でひたすら教皇の許しを請うのである。マチルダからすると、”母と自分を幽閉し兄弟を殺した憎き”仇の息子が眼前に屈辱的な姿で立っているのを見下していたことになる。そしてマチルダのとりなしで教皇は許しを得た。これにて一件落着!

                            * 完 *

 全てランペルトの記述通りとすれば教皇グレゴリウスZ世の完勝であり、皇帝ハインリッヒW世は二度と立ち上がれなかったはず・・・しかしそうはならなかった。
皇帝は一世一代の大芝居を打ったのである教皇の許しを得ると態度を一変し反撃に出る。皇帝に背いた諸侯を追放し、皇帝の権力を誇示する様になる。教皇は再び皇帝を破門するが今度は前の様にはおとなしく引き下がらない。ドイツの司教を使い教皇グレゴリウスZ世を廃位させ、新たにクレメンスV世を対立教皇に擁立しローマに攻め込んだ。グレゴリウスZ世は4年以上に亘り抵抗し南イタリアのノルマン人の支援を得る。すると皇帝は利あらずとローマを引き払う。ここまでは予定通りだが、3万5千のノルマン軍がローマで悪逆非道な行為を繰り返した。グレゴリウスZ世はローマ市民の恨みを一身に受け、ローマから逃亡し1085年5月イタリア南部サレルノで死去する。グレゴリウスZ世は高潔な理想を持ちその実現の為に世俗権力を多用したが、最終的にはそれが彼にとって命取りになったのは何とも皮肉なことである。

 
1084年ハインリッヒW世は教皇クレメンス3世から戴冠され皇帝位に就いた。彼には次から次と敵が現われ戦いの連続であった。最後に思わぬところから皇帝は足元を救われる。まず『カノッサの屈辱』の時に同行した長男コンラートがあのマチルデが陰で糸を引き裏切る。辛うじて窮地を脱した皇帝はコンラートを追放し、次男ハインリッヒを後継者とした。ところがまたもや皇帝は息子に裏切られるのである。ハインリッヒは事を慎重に運び諸侯を味方につけて父を軟禁した。皇帝はいったん軟禁を逃れるものの、やはり”二人の息子の裏切り”と言うあまりにも残酷な出来事が相当ショックが大きかったのだろう。1106年8月、皇帝ハインリッヒW世は失意の内にこの世を去った。日本の歴史上でも子の裏切りで父が倒されることがあった。強者が生き残るのが乱世の定めとは言え、このような話を耳にすると何か背筋が寒くなる想いがする。

 
1111年ハインリッヒX世は皇帝位に就く。彼は1110年から1119年にかけて教皇と交渉・・・とは言っても半ば力ずくであるが・・・を行なったがうまくいかなかった。結局1122年皇帝と教皇カリクストゥスU世との間で「ヴォルムス条約」が結ばれる。”叙任権を2分し,皇帝には世俗的支配権を笏によって授封する権利を,教皇には指輪授与による司教職の叙任権を認める”ことで決着をみた。結局グレゴリウスZ世がはじめた聖職者叙任権」闘争は教皇側の勝利で終結した。この時がローマ教皇の絶頂期と言える。教皇についた諸侯は教皇の掲げる”神権政治”なんぞを認める意思はまるで無く、あくまでも自分達の”眼前の利益”追求にしか興味はない。つまり教皇を適当に利用するだけで、教皇に付き従うなんて言う気持ちが毛頭あるはずもない。その後「ヴォルムス条約」は皇帝、教皇両方から破棄が宣言され、両者の因縁の対決は延々と続くのである。

 
1125年ハインリッヒX世が嫡子がないままこの世を去り『ザリエリ王朝』が断絶する。その後幾多の争いを経てシュタウフェン家に王位が移り、
”バルバロッサ(赤髭)”と呼ばれる英傑が登場する。そのあたりは次章で触れることにする。
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