第36段  神聖ローマ帝国 その成り立ち Part6  金印勅書 : カールW世の時代 *

 
皇帝カールW世はハインリッヒZ世の孫でボヘミア王ヨハンの息子である。ヨハンはハインリッヒZ世の死後皇帝位を継承できず不満を抱き、ドイツの宿敵フランス王家に接近し息子の養育を委託した。”養育を委託”と言えば聞こえは良いが、早い話が「人質」である。この段階でアヴィニョンのローマ教皇クレメンスZ世との繋がりができた。ヨハンは自分の無念を晴らすべく息子の皇帝選出に手を尽くし、1346年カールはルードビッヒW世の対立王としてドイツ王に推挙される。

 「
カールW世は虚像に塗り固められた『神聖ローマ帝国』を正面から見据え現実路線を歩もうとしたのだ」と私は思う。当時ドイツは「大空位時代」以降ドイツ王の権威なんぞはるか絶海の孤島に追いやられ、諸侯が思うがままに権勢を振るい帝国内の混乱は極地に達していた。そこでカールW世は自分の面子をかなぐり捨てて、混乱収束を目指し”耐え難きを耐え、忍び難きを忍び”いかなる屈辱にも耐えたのであろう。彼は”『神聖ローマ帝国』皇帝がドイツ、イタリア、ブルゴーニュ王国を支配、君臨する”などと言うことが”幻想”にしかすぎない事を悟っていた。この彼の忍耐が『神聖ローマ帝国』、言い換えるとドイツが領邦国家連合体(=分裂国家)としての道を歩むことを決定づけた。

 
カールW世はドイツ王就位に際しローマ教皇庁の示す条件を全て受け入れた。その条件とは・・・「選帝侯により選出された皇帝は教皇の裁可を得る」、「シチリア王国の教皇の宗主権を承認する」、「皇帝ルードヴィッヒW世の執った政策の無効・取り消し宣言を行なう」などなど・・・。教皇庁側の一方的な要求のみ、見方を変えればこれではまるでカールW世の無条件降伏ではないか。

 1347年ルードヴィッヒW世の急死により単独王となり、
1355年イタリア遠征を行ないローマにて教皇より皇帝戴冠を受ける。皇帝はイタリア遠征を通して「大義名分」を振りかざして争いを起こすことの愚かさを知る。それにドイツ国内に大きな権勢を持つ諸侯、とりわけ選帝侯を力ずくで押さえ込むことを断念する。「”煩悩”を断ち切ることで安寧が得られる」と彼は考えた。それ故彼は”現実路線”を歩む

 
1356年皇帝カールW世は「皇帝選挙規定を定め、対立王に象徴される大空位時代からの政治的混乱に終止符を打つ」ことを狙う『金印勅書』に黄金の印章を押す。同年1月ニュルンベルク帝国議会(諸侯会議)と同年12月メッツ帝国議会で承認され正式に発布された。以降『金印勅書』は1806年の帝国解散まで厳然たる光を放ち、帝国法として鎮座するのである。尚、主な規定は以下の通り。

 ・
選帝侯は次の7候とする。マインツ、トリア、ケルンの3聖職者諸侯、及びボヘミアザクセン、プファルツ、ブランデンブルクの4世俗諸侯。
 ・選挙はフランクフルトにて公開投票で行ない、票決は多数決で行なう。
 ・戴冠式はアーヘンで行なうものとする
選挙結果に従わない選帝侯はその資格を失う
 ・
選挙結果はローマ教皇の承認を必要としない
 ・選帝侯位及びその領土は不可分で、
長子の単独相続とする。
 ・
選帝侯は諸侯の最上位に位置し、選帝侯への反乱は皇帝への反乱に同じ大逆罪と見做す。
 ・選帝侯は領内の
裁判権関税徴収権貨幣鋳造権鉱山採掘権ユダヤ人保護権を有する。
 ・諸侯間の同盟、都市間の同盟を禁止する。
 ・フェーデ(私闘)を禁止する。
 ・選帝侯以下全ての諸侯の
領邦主権を法的に認知する。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・などなど。

 ”選挙は単純過半数で決し、従わない選帝侯は罷免”されるので、対立王の擁立による争いと言う弊害は除去された。この後『神聖ローマ帝国』解散まで対立王は現われなかった。
何よりも画期的なのは選挙結果はローマ教皇の承認を必要としない」と言う条項である。これ迄はローマ教皇と皇帝の力関係により皇帝承認権は揺れ動いていた。事実カールW世もドイツ王に就くに際しては、「選帝侯により選出された皇帝は教皇の裁可を得る」ことを認めたではないか。しかるに彼は前言を翻し”ローマ教皇の承認不要”を帝国法として定めたのである。後世になるとマキシミリアンT世の時代には教皇の戴冠式さえ無くなってしまう。かつて皇帝と教皇の間で”叙任権”を巡り紛争を繰り返してきたのがまるで嘘の様だ

 更に驚くべきは、選帝侯に与えられた特権・・・裁判権関税徴収権貨幣鋳造権鉱山採掘権ユダヤ人保護権・・・これらは本来国王に属する大権である。選帝侯は”長子の単独相続”と定められ、地位と共に領土の世襲制が認知された。更に”選帝侯への反乱は大逆罪”とまでと規定している。これらから”選帝侯=国王”と言う図式が出来上がる。 つまり帝国内に膨大な特権を有する
”選帝侯王国”が建国されたと言っても過言ではない。

 さて、選挙と言っても別に現代日本のような公職選挙法があるわけではない。
買収工作、供応なんて当たり前、まさに金権選挙
そのものである。次期皇帝が選帝侯と選ぶ”選挙協定”が曲者、皇帝が死去する度に様々な利権を選帝侯が手にする。あたかも”選挙太り”と言ったところか。選帝侯のみならず諸侯にまで様々な特権が広がり独立した地位が保証されていく。

 『金印勅書』は、フリードリッヒU世の「聖界諸侯との協約」、「諸侯の利益の為の協定」を帝国法として更に増強しただけと言える。結局『神聖ローマ帝国』は”ローマ”的要素を失いつつあり、ドイツに限定した領邦国家連合体(=連邦国家)への道を加速していくことになる。

 この頃選帝侯領の一つブランデブルク辺境伯領を所有するヴィッテルスバッハ家の内紛が頻発していた。カールW世はこれを利してブランデブルク辺境伯領を掌中に収める。選帝侯領の一つボヘミア王国はカールW世のルクセンブルク家が領有している。これで
選帝侯領を2つ領有、つまり皇帝選挙の2票を確保した。過半数まであと2票とぐっと有利になる。ルクセンブルク家の皇帝世襲が現実のものに近づきつつあったかに見えた。

 カールW世は
1376年息子ヴェンツェルを皇帝継承者”ローマ王”とする。カールW世の狙いはルクセンブルク家による皇帝世襲である。”ローマ王”選挙も選帝侯の権限であるから、皇帝選挙同様凄まじい金権選挙になる。自らの皇帝選挙にブランデブルク辺境伯領の買収に財政も逼迫した。莫大な資金調達の為に帝国都市に見返りとして多くの特権を与えた。その中に”都市同盟の許可”があり、1376年シュヴァーベン都市同盟が結ばれる。これは明らかな『金印勅書』違反であり、諸侯と都市の対立抗争が激化する。カールW世自ら築いた『金印勅書』による国内平和を一瞬にして吹き飛ばしてしまった。

 何故カールW世は自ら発した『金印勅書』に違反する行為を行なったのだろうか?それは
彼の”皇帝世襲”へのこだわりが起因する。どんなに冷静に見える皇帝もやはり父親、いわゆる”親バカ”になるのだろう。そこまでして息子を皇帝にしたかったのだ。

 
1378年カールW世がこの世を去るとヴェンツェルU世は皇帝位に就く。しかしながらヴェンツェルU世は諸侯と争い囚われて廃位される。1400年ヴィッテルスバッハ=プファルツ家のループレヒトV世が皇帝位
に就くが、1410年王位は再びルクセンブルク家に戻りカールW世の次男ジキスムントが皇帝位に就く1417年ジキスムントはフランス王家の教皇庁独占への反発から生じた教会大分裂(1378年〜1417年)を解消させた。しかしながら本拠地ボヘミアで大混乱を招き命取りになる。1412年教皇ヨハネス23世による「免罪符」販売が始まり、ローマ教皇庁の腐敗・堕落の極みにあった。プラハ大学学長ヤン・フスは教皇庁を激しく糾弾する。ヤン・フスは約100年後のマルチン・ルターに先立つ宗教改革の先駆者である。ルターの時代には教皇庁の横暴を多くの諸侯が憎み宗教改革を支持していたが、この時代はまだ教皇庁の権威が強くヤン・フスなどの先駆者は四面楚歌の状況におかれていた。1415年教皇庁は異端審問を行ない、ヤン・フスを破門し異端者として火刑に処する。皇帝がボヘミアに弾圧を加えたのに対し、プラハ市民が立ち上がり1419年から1436年まで続くフス戦争に発展する。

 この間ルクセンブルク家の権勢は弱まる一方で本拠地のボヘミアも失い、
フス戦争を終結させた翌年に皇帝ジキスムントは嫡子も無いままこの世を去る。ここにルクセンブルク家の皇帝世襲の夢も潰え、皇帝の座もボヘミアと共にハプスブルク家に渡る。いよいよここからハプスブルク家の『神聖ローマ帝国』皇帝の長期独占が始まるのである。そのあたりの経緯につては次章で触れることにする。
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