第37段  神聖ローマ帝国 その成り立ち Part7  ハプスブルク王朝の復活 *

 1437年ルクセンブルク家の最後の皇帝ジキスムントが嫡子無くこの世を去ると、
翌年娘婿のハプスブルク家!のアルプレヒトU世が皇帝となる。「相互相続契約」のお蔭でルクセンブルク家のハンガリーとボヘミアを手に入れる。幸運の女神がハプスブルク家の頭上に輝いたのである。しかしながらこの久しぶりのハプスブルク家の皇帝は幸運を享受することなく、1439年ドイツ王戴冠式に臨むことなく急死する。嫡子は彼の死後に生まれたラディラスである。1439年アルプレヒトU世の従兄弟フリードリッヒがドイツ王に、そして同時にラディラスの後見人となった。そのラディラスは1457年にこの世を去る。1452年ローマでローマ教皇より皇帝戴冠を受け、皇帝フリードリッヒV世となる。彼は”ローマで教皇より皇帝戴冠を受けた最後の皇帝”となった。

 フス戦争以来ボヘミアの混乱にオスマン・トルコ帝国が狙いをつけている。選帝侯、諸侯はトルコの脅威に立ち向かう存在として、ボヘミアの支配者のハプスブルク家に白羽の矢を立てた。そこでフリードリッヒV世の登場となったのだが、
彼は人畜無害な能力無き者」として諸侯には扱いやすいと見做されたからである。ところがたしかに無能なこの国王は”忍耐強く丈夫で長持ち”で何と53年間しっかりと王位を守った。彼の在位中強敵・・・ハンガリー王マーチャーシュ、ブルゴーニュ公シャルル突進公、彼の弟アルプレヒトなど・・・が次々と現われたが、彼は何とか凌ぎきり相手が先に死んで自分が生き永らえた。この諸侯の思わぬ見込み違いがハプスブルク家の皇帝位独占に繋がるのは皮肉な話である。

 皇帝の弟アルプレヒトが皇帝に所領分割を要求するが、皇帝に無視され強引な行動をとる。この不肖の弟は皇帝一家をウイーンに軟禁するが辛うじて脱出に成功する。1463年アルプレヒトが死去すると、皇帝はウイーンに再び戻ることができた。

 1453年5月ビザンツ帝国の首都コンスタティノーブルがオスマン・トルコ帝国に攻め落とされ、ビザンツ帝国は滅亡する。この時ハンガリーはマーチャーシュ・コルヴィヌスが治めていた。皇帝は頼りにならないと感じたハンガリー王は「オスマン・トルコの脅威からキリスト教世界を守るのは自分しかいない」と考えウイーンに攻め入った。この時も皇帝はウイーンを脱出するが、1490年マーチャーシュの死去により皇帝はまたまたウイーンに戻ることができた。いずれの場合も自力で原状回復したのではなく、”偶然”と言う幸運に支えられたのである

 フリードリッヒV世の
公文書にはしばしば「ドイツ国民」と言う表現が使われている。1442年発布の法律には「神聖ローマ帝国とドイツ国民」、1471年の告示には「神聖ローマ帝国と威厳あるドイツ国民」、1486年の平和令には「ドイツ国民の全てのローマ帝国」・・・などなど。この「ドイツ国民」はドイツが『神聖ローマ帝国』を支配していることではない。むしろ『神聖ローマ帝国』の威光がドイツ国内にしか及ばなくなっていたことを意味している。これはフリードリッヒV世が現状を正しく認識していたか、あるいは歴代皇帝の”全ヨーロッパ支配”と言う壮大な夢を諦めていたとも考えられる。

 
フリードリッヒV世については第21段で詳しく述べているのでそちらを参照されたい。

 1493年フリードリッヒV世がこの世を去ると、嫡子マキシミリアンT世がドイツ王となる。1512年から「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という国名が正式に使われている。この時期は帝国の範囲はドイツと僅かなその周辺地域に限定されていた。しかしながらその後マキシミリアンT世は子、孫による巧みな政略結婚で他家と契りを結んだ。その結婚に偶然と幸運が後押しして、ハプスブルク家には膨大な領土が転がり込む。戦うことなくしてマキシミリアンT世により日の没することなき世界帝国』が形成される。

 マキシミリアンT世については第22段で詳しく述べているのでそちらを参照されたい。

 1519年マキシミリアンT世がこの世を去ると、スペイン王カルロスT世ととフランス王フランソワT世の凄まじい金権選挙の結果カルロスが『神聖ローマ皇帝』に推挙される。 1520年スペイン王カルロスT世は”中世最後の皇帝”と言われたカールX世となるカールX世はフランス王とローマ教皇の押え込みに成功し、オスマン・トルコ帝国の脅威に対して小康状態にすることができた。しかし彼は宗教改革の嵐、宗教対立に大いに苦しめられることになる。

 
カールX世については第23段第24段で詳しく述べているのでそちらを参照されたい。

 1556年カールX世はブリュッセルで退位を表明する。同年皇帝位はオーストリアの弟フェルディナンド(フェルディナンドT世)に、スペイン王位は長男フィリップ(フェリペU世)に譲位される。この時以来ハプスブルク家は「オーストリア系」と「スペイン系」に分裂する。スペイン・ハプスブルク家この後皇帝位はオーストリア・ハプスブルク家に代々受け継がれる。しかしながら両家は良好な関係を保ちお互いに支え合う。

 
皇帝フェルディナンドT世、マキシミリアンU世いずれも10年前後の短い治世では功績をあげる間もなかった。次のルドルフU世はハプスブルク家の中で文句なしに”変人”と言える。生涯独身で嫡子もいない。在位36年に及んだが、政治は宮廷の重臣にまかせっきりで彼の政治活動は無に等しい。彼は政治家としては全く無能と言われている。プラハの王宮に籠りきりで美術品の収集や占星術、錬金術などに没頭していた。もしかしたら彼も『神聖ローマ帝国』の実情を正しく理解していて、厭世気分に陥り”世捨て人”のフリをしていたのかもしれない。

 ”ハプスブルク家消滅”の危機感を持った
弟マティウスは兄に譲歩を迫った。歴史上有名な「ハプスブルク家の兄弟喧嘩」である。マティアスは兄からオーストリア、ハンガリー、ボヘミアを奪ったが、さすがに皇帝位までは奪わず幽閉した。1612年マティウスは兄の死去に伴い皇帝位に就いたが、王権が弱体化している現状にはなす術もなく、嫡子を残すことなく1619年在位僅か7年で彼もまたこの世を去った。やはり権某術策を労して権力を奪った者には、恵みが無いところか天誅が下ると言うことか・・・。

 1619年マティウス帝がこの世を去ると、彼の
従兄弟フェルディナンドU世が皇帝位に就くフェルディナンドU世は”反宗教改革”の急先鋒であり、新旧両教徒による激しい対立を招き「ドイツ30年戦争」を引き起こす。その戦争の終結処理として「ウエストファリア条約」が結ばれ、『神聖ローマ帝国』に死亡診断が下されることになる。このあたりの事情は次章で触れることにする。
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