第22段  ハプスブルク家 その成り立ち Part3 * マキシミリアンT世の結婚戦略 *

 
マキシミリアンT世は巧みな政略結婚で他家と契りを結び、偶然と幸運の後押しによりハプスブルク家には膨大な領土が転がり込んできた。 まさに”濡れ手に粟”、こんな話が現実にあったとは・・・あやかりたいものだ。

 マキシミリアンT世と王妃アンナには二人の子供、
嫡子フィリップ(美公)と王女マルガリータがいた。スペインのアラゴン王フェルナンドX世からハプスブルク家に縁談が持ちかけられた。当時スペインはフェルナンドとカスティリア王国の女王イサベラT世の婚姻により統一を果たしていた。スペインはナポリやシチリアなどのイタリアでの権益をフランスから守る為、ハプスブルク家と手を結ぶのが最適と考えた。ェルナンドは三女ファナとフィリップの縁談、と同時に嫡子ファン王子とマルガリータの縁談をマキシミリアンT世に提案した。皇帝にしてみれば「牌は2つしかないのにスペイン一国に預けてよいのか?」との想いにかられる。リスク分散を考えても当然のこと。それでもこの2組の縁談はまとまり、1496年9月2組の夫婦が誕生した。

 婚姻に際しては通常多くの項目からなる契約が締結される。特に国家の継承については「
相互相続契約」が結ばれた。結婚の当事者、つまり夫婦のいずれかが嫡男を残さずに死去した場合には、国家の相続が最大の焦点になる。子供が多い場合には問題になることは少ないが、フェルナンド夫妻やマキシミリアン夫妻の様に二人と少ない場合は何が起きるかわからない。まして当時は衛生状況が悪く死亡率が高いのでなおさらだ。いわばサバイバルゲームの様なもので、”丈夫で長持ち”が肝要である。どんなに優れていても短命ではダメ、いかに長生きして子孫を多く残すかが勝負の分かれ目である。ハプスブルク家が1918年まで綿々と続いて行くのは、”丈夫で長持ち”の君主が多かったからに他ならない。

 フィリップとファナの10年に亘る結婚生活で二男四女、6人の子供が産まれた。二人の結婚生活は幸せとは言えなかった。スペイン王室には度重なるポルトガル王室との近親結婚の為か、虚弱体質の者が多かった。(もっともスペイン王室だけではなく当時のヨーロッパの王侯貴族の間では頻繁に近親結婚が行なわれいて、どこでも多かれ少なかれ似た様な危険性は常にはらんでいたと言える。)ファナはもともと精神を病んでいたらしく、どんどん進行して症状が顕著に現われるようになったようだ。
フィリップにとってファナとの結婚生活が事実上破綻していても、スペインを掌中に収める為にはスペイン王女ファナは必要不可欠な存在であった。彼女は”狂女”とのあだ名されれていたが、体そのもは健康で1555年にこの世を去るまで形の上では息子カルロスT世と共にスペイン統治者であった。しかしながら実態は父フェルナンドにより幽閉され、50年間”生ける屍”と化した。

 一方ファン王子とマルガリータは1497年4月、ブルゴスの大聖堂で結婚式を挙げた。ファンはスペイン王家でただ一人生き残っている嫡子であり、国家の将来を背負い期待は大きかった。ところが彼は生まれつき虚弱体質であり、結婚から僅か半年余りで病気で急逝した。その時マルガリータは懐妊しており、スペイン王家の行く末は全て”生まれてくるであろうその子”にかかっていた。ところが死産・・・これでスペイン王国の命運は決した。傷心のマルガリータは帰郷、その後サヴォイ公爵と再婚したが死別した。子供もなかった彼女はブリュッセルへ戻り再婚せず、ネーデルランド総督として政治的能力を発揮した。彼女はフィリップの遺児6人の内4人の養育に力を注いだ。特に
1519年の皇帝選挙ではフィリップの長男カールの参謀として、彼の皇帝就任に多大な貢献をした。

 1504年カスティリア女王イサベラが53歳で死去。この時ファン王子をはじめカスティリア王家ゆかりの者は既にこの世になく、ファナ一人になっていた。それで夫フィリップは自動的にカスティリア王になった。カスティリア王となったフィリップはスペインへ赴くが、1506年ブルゴスにて不慮の死を遂げる。続いて1516年アラゴン王フェルナンドも跡継ぎがないまま死去。それにしても
ドラマにあるでぎすぎた話のようだ。ここまで偶然と幸運が重なるものか・・・!ファナの長男カールがスペイン王国全土を継承することになり、1516年カルロスT世(後の皇帝カールX世)となる。これで事実上スペインはハプスブルク家の掌中に収まった。以降スペイン=ハプスブルク家は約200年間に亘り継続した。

 
マシミリアンT世は1515年、ウイーンでハンガリー王ウルディスラフと二重結婚契約を結ん
。当然「相互相続契約」は結ばれている。当時ハンガリー王はアジアの強国オスマン・トルコ帝国の脅威に対抗する必要があり、ハプスブルク家の強力な支援が必要であった。ウイーン会議と言えば”会議は踊る”で有名な1815年の会議を思い浮かべるが、1515年のこのウイーン会議もドナウ河周辺地域のその後を決めたと言うことで意味深いものである。マキシミリアンにとってみればスペインの時とは違って今度は孫が6人と心強い。フィリップの次男フェルディナンド(後の皇帝フェルディナンドT世)はハンガリー王女アンナと、王女マリアはハンガリー王子ラヨシュの2組の夫婦が誕生した。夫婦とは言ってもどちらも10歳前後の子供、まるでままごとの夫婦のようだ。

 またここでも
偶然と幸運がハプスブルク家にとり都合の良い状況を演出する。1526年ハンガリー王となったラヨシュはハンガリー南部のモハーチでのオスマントルコとの戦いで遭えない最期を遂げた。ラヨシュの王妃はハプスブルク家の王女マリア、マリアの兄フェルディナンドはラヨシュの妹アンナの夫・・・と言うことで必然的にハンガリー王冠がフェルディナンドの頭上に載ることになった。また古来よりハンガリー王がボヘミア王を兼ねていたので、ハプスブルク家は一挙に両国を掌中に収めることになった。

 マキシミリアンの父フリードリッヒX世の時代にはハプスブルク家は地方の弱小諸侯の一人にすぎなかった。ところがこれらの一連の結婚で、マキシミリアンの時代にはオーストリア以外にネーデルランド(ブルゴーニュ)、スペイン、ボヘミア、ハンガリー、ミラノを領有するヨーロッパ最大の王家となったのである。更にスペインは長きに亘るレコンキスタ(国土回復運動)によりイスラム勢力を一掃に成功し、その後海外に目を向け世界各地・・・南アメリカ、フィリッピン、イタリア(ナポリ、シチリア、サルディニア)・・・に植民地を有していた。これらも合わせて手に入れたのである。これで文字通り、『日の没することなき世界帝国』を形成したのである。これ以降、ハプスブルク家では代々結婚戦略は受け継がれていった。

 何度も繰り返すがこの世界帝国は戦争により形成したものではない。結婚戦略によりできあがったものである。
他には例を見ない歴史上最大の快挙(怪挙?)と言えるのではないだろうか?

 ハプスブルク家はヨーロッパの歴史の中心に位置するが、以降宗教改革の嵐、宗教対立、ローマ教皇庁との確執、フランスとの争いなどに巻き込まれる。
1556年のオーストリア系とスペイン系のハプスブルク家の分裂、スペイン・ハプスブルク家の滅亡などを経て盛衰を繰り返し徐々に衰退の道を歩んで行くことになる。次章ではその経緯に触れる。
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