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第44段  アテネ・オリンピック 女子マラソン総括 *

 2004年8月22日アテネオリンピック女子マラソンが行われ、野口みずえが2時間26分20秒のタイムで金メダルを獲得した。野口が駆け引きなどに惑わされることなく、自分のペースで押し切って勝利したことは絶賛に値する。また土佐礼子が5位、坂本直子が7位と3人全員入賞の快挙を果たした。今年の春に代表選考を巡っていろいろあっただけに尚更嬉しい。

 野口は150cmの小柄な体にもかかわらず、そのストライドは身長にほぼ同じ148cmと長い。ピッチ走法の高橋尚子とは対照的な走り方である。一般的にストライド走法は脚にかかる負担が大きく不利とされる。それにアテネのコースは200m以上もの高低差があり、野口のバネの利いたストライド走法では脚がもたないとも言われていた。野口は筋肉トレーニングや脚力強化の練習により克服し、その逆風を見事に撥ね退けた。逞しい精神力がオリンピックの大舞台で大輪の花を咲かせた。

 今回の代表3人にはラドクリフ、ヌデレバなどの外国強豪勢の他に、別の”目には見えない”
大きなプレッシャーがのしかかっていた。それは代表選考から漏れた『高橋尚子』の存在である。第40段で触れた様に「高橋落選」の報は世界中を掛け巡り、日本陸連には賛否両論のTELやMailが殺到、また土佐礼子の合宿所には脅迫のTELがいくほどの大騒ぎになった。私は3月の代表決定時点で「今回の選考結果は妥当」と評価している。そして実力ある3人の内誰かが必ず金メダルを取ると信じていた。おそらく日本陸連も今回の結果にほっと胸を撫で下ろしていることと思う。これで日本が金メダルを取れていなければよからぬ雑音が渦巻いて大騒ぎになったかもしれない。それだけに今回の野口の勝利は痛快の一言に尽きる。

 この様に周りも思うのだから、代表3人は口には出さなくても様々な想いはあったことだろう。高橋信仰は相当根強く、「高橋がいないこのメンバーでは不安」などと思っている人が多くいた。それに対して「必ず良い成績を残すのだ」と言う彼女達の”
女の意地”が良い方向に働いたと思う。野口は北京で前人未到の”オリンピック2連覇”を目指して欲しい。一方土佐、坂本の両者は今回の順位には不満が残るだろうが、まだまだチャンスはあるので北京に向けて頑張って欲しい。

 今までの女子マラソンのメダリストは全て小出義雄監督の教え子であった。それ故小出監督もあれだけ強気の発言ができたのであろう。それだけに藤田信之監督という指導者からの新たなメダリスト誕生は意義深いものがある。今回の野口の優勝が励みとなり、今後ハイレベルな指導者層が広がっていくと思われる。小出監督の功績を否定するつもりは毛頭ない。指導者間の切磋琢磨も必要で、それによりまた新たに優秀な選手が輩出されることになる。

 アテネのコースは後半に厳しい上り下りのあるタフなコース、更にスタート時気温29度、湿度65%、強烈な日差しの環境では過酷なレースになることが充分に予想された。25Kmから31Km付近まで高低差80mの上り坂、更に坂の頂点から10Kmあまり下りが続く。野口は25Kmすぎにラドクリフ、ヌデレバらを引き離し、エチオピアのアレムと共に抜け出した。アレムは昨年の東京女子国際であの高橋尚子を下している。野口は27.6Kmの給水地点付近で一気にスパートをかけて大きく引き離した。藤田信之監督のレース前の指示は25Km付近の上りでスパートをかけ、その貯金で最後の10Kmあまりの下りを凌ぎきるというものだった。下りになると外国勢とのストライドの違いでかなわないので、その前に差をつけるという作戦がズバリ的中した。

 野口は2番手のヌデレバを35Km地点では28秒、約150m引き離していた。昨年の世界選手権では野口はヌデレバに19秒差の2位と敗れている。残り7Kmもあると底力のあるヌデレバの存在は脅威・・・TV観戦の私はもとよりおそらくTVの前の多くの観客はハラハラドキドキの連続を味わったことであろう。一方世界記録保持者のラドクリフは一向にペースが上がらず、野口からは大きく引き離されもがき苦しんでいる様に見える。もともと頭の上下動が目に付くが、今日のラドクリフは尚更揺れが大きい。36Km地点でいったん立ち止まり、再び走り出したがもう既に余力はなくついに棄権した。この時パナシイコ競技場の大スクリーンにラドクリフの様子が映し出されると、勝利を信じて疑わなかったイギリスの応援団から大きな悲鳴が上がった。

 ケニアのヌデレバが徐々に差をつめ優勝争いは2人に絞られた。38Km地点では14秒差まで縮まったが、39Km地点でも14秒、40Km地点でも13秒とほとんど変わらない。勝負事はいつ何時何が起きるか予測がつかない。TVの映し方によっては野口のすぐ後にヌデレバの姿がある様に見えるので、見ている方としては心配で仕方がない。ゴールはまだか?ゴールするまでの時間がものすごく長く感じた。野口がパナシイコ競技場に入ってきて場内の歓声に応えて手を振っている。50m位後方にヌデレバが迫ってきており、大丈夫とは思っていてもやはりひやりとする。野口もヌデレバに気がつきラストスパートして12秒差をつけて逃げ切った。

 マラソンは走るコースも違えば気温、風雨など条件も毎回異なり、単純に持ちタイムだけでは比較できない。本命視されたラドクリフの途中棄権がそれを物語っている。しかしながら現在のマラソンは基本的にはスピードがないと勝てないことには変わりはない。
マラソンの高速化が一層進み、スピードとスタミナの両方が選手には必要となっている。それには綿密に計画された質の高い豊富なトレーニングが必要と言える。

 野口は昨年8月の世界選手権で2位となり、早々とオリンピック代表に内定していた。それから10ヶ月の準備期間を経てアテネに臨んだ。そこには用意周到な綿密な”
金メダルプラン”があった。日本の場合マラソンの準備期間は3ヶ月程度が一般的で、中には5、6ヶ月程度かける選手もいると言う。野口の場合は練りに練ったプランを10ヶ月かけて実行して本番に臨んだ。

 (1) 2003年11月から3ヶ月、毎月ハーフマラソンを走り最後は自己記録を狙う。
 (2) 2004年2月に30Km,又はフルマラソンを勝負度外視で走り地力を確認する。
 (3) 2004年4月に10000m(トラック)で自己記録を狙う。
 (4) その後は起伏のある所で走りこみ、アテネに対応できる脚を作る。


 それではどの様な結果になったか検証してみる。

 (1) 2004年1月、宮崎で1時間7分47秒の自己ベストを達成。
 (2) 2004年2月、青梅マラソン30Kmで1時間39分9秒の日本新で優勝。
     時それまでの高橋尚子のコースレコードを2分48秒上回る素晴らしい記録である。
 (3) 31分21秒3で自己ベストを約30秒更新。
 (4) 2004年5月から3ヶ月、中国の昆明やスイスのサンモリッツの高地合宿を行なった。
     6月には昆明(標高2400m)で1300Kmの起伏に富んだ所で走り込み。
     7月にはサンモリッツで山の峠の10Kmの上り、10Kmの下りの練習を2度実施。


 全て目標を達成、そしてレースでの完璧な作戦により今回の金メダルを得た。正直言えば私はオリンピックの1年も前のレース結果で代表選出は早すぎるのではと思っていた。今回のこの結果を見て、野口の場合は日本陸連の決定が妥当であったと言える。但し全てこの様にうまくいくかどうかは断言できない。

 TV番組で金メダリスト二人の比較をしていた。かつて男子マラソンでオリンピックに出場した宇佐美さんが出演し質問に答えていた。「二人がアテネで一緒に走ったらどちらが先着したか?」とか「野口が抜け出した時高橋はどう対応したと思うか?」などと司会者がある意味無責任な質問をしていた。さすがに宇佐美さんはうまく答えていたが、興味本位とも受取れるこの様な質問には辟易とする。仮定の質問は全く無意味であり、いずれ二人が同じレースで激突すれば自ずから結果は明らかになる。 帰国後の記者会見で野口は「(シドニー五輪金メダルの)高橋尚子さんと走ってみたい。強い人と走って日本記録を狙いたい」と意欲を見せている。二人の対決が今から楽しみ・・・。

 シドニーの高橋、アテネの野口、この二人による2大会連続金メダルは実に素晴らしい。日本女子マラソンが世界最高の水準にあることを示したとも言える。日本女子長距離界はレベルが高く、次々と新しい有力選手が出現しており今後も更に期待できる。4年後の北京までにまた新たな有力選手が出てきて激しい競争を繰り返すであろう。今回アテネに出場した3選手、それに高橋も安穏とはしていられない。 高橋はボルダーでの合宿中に故障発生しベルリンを断念したと伝えられている。スポーツ選手は故障が怖い。皆順調に調整し、4年後を目指して頑張って欲しい。


(2004.09.30追記)

 9月26日に
第31回ベルリンマラソンが行なわれ、渋井陽子が2時間19分41秒の好タイムで優勝した。世界歴代4位で、高橋尚子の持つ従来の日本記録を5秒更新した。日本女子マラソン界のレベルの高さをあらためて世界に示した。ベルリンのコースは早いタイムが出る。それにラビットと言われるペースメーカーがつきよほど悪コンディションでなければ記録を充分に狙える。とは言っても同じコースを走った高橋の記録を破ったのだから渋井の結果は大いに評価できる。渋井の持つスピードは魅力的、それにまだ25歳とまだまだ上昇が見込める。野口、高橋は来年の世界選手権回避、渋井は3月の名古屋に出場、世界選手権を目指すと言う。野口、高橋との直接対決は暫く先になりそうだが、これでまた女子マラソンの楽しみが増えた。 
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