第39段  神聖ローマ帝国 その成り立ち Part9  その終焉、そしてEUの誕生 *

 『神聖ローマ帝国』が有名無実となっても、ウェストファリア条約によって定められたドイツ国家体制は1806年の帝国解散まで維持される。しかしながら18世紀半ばのヨーロッパ勢力地図には『神聖ローマ帝国』は載っていない。つまりそんな国はもう既にどこにも存在しないと言うことに他ならない。ハプスブルク家は自領を守るのに精一杯で帝国全体のことなんぞ考える余裕もない。フランス、オスマン・トルコ帝国が『神聖ローマ帝国』に狙いをつけている。逆にこの事が名目だけの『神聖ローマ帝国』の求心力となる。普段はバラバラでも何らかの脅威に対しては、『神聖ローマ帝国』の名の下にさすがの諸侯も結束して対応するのである。1683年のオスマン・トルコ帝国のウイーン包囲、1701年〜1714年のスペイン継承戦争がそうである。またフランスにヨーロッパの覇権を握られてはたまらないイギリスとオランダが、『神聖ローマ帝国』を金銭面などで強力に支援しフランスに対抗させようとする。だからこそ多くの国家の様々な思惑が交錯しつつ、『神聖ローマ帝国』が”死に体”でありながら存続し得たのである。フランスも新興のプロイセンも『神聖ローマ帝国』の看板の前ではうやうやしく畏まりうわべだけの敬意を表する。そして両国共に皇帝位を終始”我が物”にしようと努力を続けた

 
ドイツ30年戦争が終結するとヨーロッパの覇権はフランスが握る。当時人口1800万の超大国フランスはブルボン王朝の”太陽王”ルイ]W世の下栄華を誇っていた。一方東には往時の勢いは失われているとは言ってもオスマン・トルコ帝国が虎視眈々と侵攻の機会を窺っている。『神聖ローマ帝国』は東と西から挟み撃ちに遭っているのに等しい。

 
1657年フェルディナンドV世がこの世を去ると、次男レオポルトT世が皇帝位に就く。皇帝はオスマン・トルコと2度(1661年〜1664年、1682年〜1697年)戦う。この頃フランスとオスマン・トルコは「反ハプスブルク」で利害が一致し手を結ぶ。1669年7月オスマン・トルコの使節がヴェルサイユ宮殿でルイ]W世に謁見し、「トルコのウイーン攻撃の際にフランスは中立の立場をとる」ことを要請した。異教徒であっても目的が合致すれば両者共に異論あるはずがない。1683年7月オスマン・トルコ帝国は30万の大軍でウイーンを包囲した(第2次ウイーン包囲)。この時皇帝はさっさとウイーンから逃亡する。残された市民や守備隊は籠城戦術でオスマン・トルコ軍の猛攻にただひたすら耐えた。3ヶ月後帝国諸侯の援軍がオスマン・トルコ軍を打ち破る

 フランスに国境を接するスペインでは
スペイン・ハプスブルク家が危機に瀕している。当時スペイン王のカルロスU世は生まれつき病弱で断絶は時間の問題となっていた。ルイ]W世はカルロスU世の姉を王妃、皇帝はカルロスU世の妹を皇妃に迎えている。当然両者はスペイン王位継承権を主張する。カルロスU世の遺言「スペイン王位をフランスに譲る」が最終的には物を言う。恐らくカルロスU世が存命中にルイ]W世の画策によると思われる。ルイ]W世の孫フェリペX世がスペイン王となりスペイン全土を継承する。これではスペイン全土がフランスの掌中にあるも同然である。

 イギリス、オランダはオーストリア・ハプスブルク家と手を結び連合軍を結成し,
1701年9月スペイン継承戦争が勃発する。後日連合軍にはプロイセン・ポルトガルが参加する。フランスはほとんどのヨーロッパ列国を敵に回す。これではフランスに勝ち目は無く、せっかく手に入れたスペイン王位を失うのも時間の問題と思われた。しかしながら”気まぐれな”幸運の女神はスペイン・ハプスブルク家の復活を吹き飛ばしフランスに味方する。1705年レオポルトT世がこの世を去ると、ヨーゼフT世が皇帝位に就く。ところがスペイン継承戦争の最中、1711年ヨーゼフT世がこの世を去り、カールY世が皇帝位に就くカールY世はオーストリアのスペイン継承戦争勝利際にはスペイン王になる予定だった。ところがヨーゼフT世の急死で、皇帝とスペイン王を兼ねることになる。これではかつてカールX世時代の”世界帝国”の再来である。今度はイギリス、オランダがこれに反対し、ユトレヒト条約にて”フランスはスペインを統合しない”と言う条件で、スペインは実質フランスに帰属する。

 
一見するとハプスブルク家により『神聖ローマ帝国』が復活するかの様にも思えるがそうではない。ハプスブルク家は”皇帝”としてスペイン継承戦争に加わったのではなく”ハプスブルク大公国”、つまり他の諸侯と同格で参戦したのである。他の諸侯とて”自らの”利益第一で『神聖ローマ帝国』の事なんぞ全く眼中にない。更に驚くべき事に選帝侯国バイエルンがフランスと手を結ぶ。帝国の選帝侯が”盟主”である皇帝に背いている。まさにこれは『神聖ローマ帝国』が”死に体”であることを如実に示している。

 
レオポルトT世、カールY世に治世については第26段を参照されたい。

 
1740年皇帝カールY世がこの世を去ると、ハプスブルク家の後継問題が起きる。皇帝には一人娘マリア・テレジアが後継者になれる様に多大な犠牲を払って「相続順位法」を発布した。ところが帝国法では女子相続を認めていない。プロイセンのフリードリッヒU世(大王)は帝国法を楯にハプスブルク家の断絶を主張する。これにフランス、スペイン、バイエルン、ザクセンそれにイギリスまでもが呼応しオーストリア継承戦争が勃発する。1742年皇帝位はいったんヴィッテルスバッハ家のカールZ世の手に渡る。しかしながら女帝マリア・テレジアは強い意志で戦い抜く。1745年夫フランツT世は皇帝位に就き、更に1748年アーヘンの和約によりオーストリア継承戦争は終結する

 プロイセンのフリードリッヒ大王は執念深くオーストリアを狙っている。1756年プロイセンはイギリスと同盟を結びザクセン王国のドレスデンを手中に収めた。
これがきっかけで7年戦争が勃発する。オーストリア、フランス、ロシアが同盟を結びプロイセン、イギリスに対抗した。こうして見ると『神聖ローマ帝国』の影なんぞどこにも見当たらない。オーストリア継承戦争も7年戦争もれっきとした独立国同士の争いになっている。1763年にパリ条約が結ばれ、7年戦争は誰が勝利したもなくうやむやな決着となった。

 
女帝マリア・テレジアについては第17段第18段第19段を参照されたい。

 
1765年フランツT世が亡き後もハプスブルク家の皇帝位継承は続く。長男ヨーゼフU世が女帝マリア・テレジアの共同統治者として皇帝位に就く。1780年女帝マリア・テレジアがこの世を去り単独統治者となる。1790年フランツT世がこの世を去り、ヨーゼフU世が皇帝位に就く僅か2年でこの世を去る。1792年フランツU世が『神聖ローマ帝国』最後の皇帝となる。この頃ハプスブルク家はなりふり構わず必死の想いで”皇帝”の座にしがみついていた。皇帝は選帝侯位をザルツブルク、バーデン、ヴュルテンベルク、ヘッセン・カッセル候に与えた。この時代の”選帝侯”なんぞ全く意味の無いものであるが、それでもいつの時代も力がつくと次は”名誉”が欲しくなる。それでありがたく頂戴したのである。気の毒なのは中小諸侯で、二大勢力「ハプスブルク」と「プロイセン」に挟まれ自分達の主権が確保できるか常に戦々恐々としていた。

 
1789年フランスでヨーロッパを震撼とさせる大事件が勃発する。フランス革命によりブルボン王朝は崩壊した。ジャコバン党による恐怖政治などの混乱の最中ナポレオンが表舞台に登場する。1796年ナポレオンはオーストリアを破り2度ウイーンを占領するなど、ヨーロッパは”ナポレオン旋風”が吹き荒れる。歴代のフランス王は自ら皇帝を名乗ることはなく、あくまでも従来の枠組みの中での『神聖ローマ帝国』皇帝を目指した。しかるにそんな従来の既成概念に囚われないナポレオンは1804年フランス皇帝ナポレオンT世を名乗る同年『神聖ローマ帝国』皇帝フランツU世は「オーストリア皇帝」フランツT世を名乗っている。事実上この時点で神聖ローマ帝国は崩壊していたとも言える。

 1805年12月三帝会戦アウステルリッツ西方でナポレオンはロシア・オーストリア連合軍を破る。1806年7月ナポレオンはバイエルン、ヘッセン、バーデンなど16の有力諸侯に「ライン同盟」を結成させる。「ライン同盟」は帝国議会からの離脱を宣言、これで既に実質的に崩壊していた神聖ローマ帝国の名目上の存在価値も消え失せた。そして同年8月フランツU世は『神聖ローマ帝国』の解散を宣言した。1648年のウエストファリア条約でで事実上死亡していた
『神聖ローマ帝国』はついにその終焉の時を迎えたのである。一方ハプスブルク王朝は『オーストリア帝国』として1918年まで存続する。

 このあたりの事情については第27段を参照されたい。

 『神聖ローマ帝国』の終焉から187年後、
1993年11月EU(ヨーロッパ連合)が誕生した。2004年3月現在の加盟国は15ヶ国であり、同年5月には新たに10ヶ国が加盟する予定になっている。EUは「ヨーロッパの政治経済の統合を目指し、加盟国間の相互協力を強化することを目的として設立された超国家機構」である。1998年6月物価安定を図るマネーサプライ政策を中心に金融政策を担う”ヨーロッパ中央銀行”が発足した。更に2002年からはイギリス、デンマーク、スウェーデンをのぞくEU12ヶ国で単一通貨ユーロの流通がはじまり、人口約3億人を擁する「大Euro圏」が誕生した。現在通貨統合のステップまで進んでいる。

 当初私は”
何故ヨーロッパの諸国が一つにまとまろうとしているのか”どうもよく分からなかった。どう考えても「文化も言語も宗教も歴史も異なる国家が一つ屋根の下で共同体となる」ことには無理があると私は思っている。それでも『神聖ローマ帝国』の成り立ちを追いかけて行く内に、おぼろげながら”何故?”が何となく見えて来た様に思う。

 古くは世界帝国としての古代「ローマ帝国」、そしてその栄光の復活を夢見た『神聖ローマ帝国』・・・。恐らくかつてヨーロッパから中東、北アフリカ、イギリスの一部にかけて壮大な統一国家を形成した
古代「ローマ帝国」の繁栄が、ヨーロッパの人達には無意識の内に摺り込まれているのではないか?
また彼らの遺伝子に組み込まれているのではないか?だからこそ”ヨーロッパ大統合”に挑戦しているのだと思う。EUの理念は高く掲げられ、その動きは困難に立ち向かいながら一歩一歩進んでいる様にも見える。もしかしたらまたもや過去の歴史同様”幻影”に終わるかもしれない。これから先EUがどの様に展開して行くかは分からないが、後世に於いて”歴史的事実”として評価されることになるだろう。『神聖ローマ帝国』がそうである様に・・・。
                            * 完 *
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