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第53段 * 杜の都 仙台 ‐ 学生時代の懐かしき思い出 ‐ *

 
1月10日から水戸黄門第34部が始まるが、今日それに先がけてPR番組を放映した。今回は黄門様が仙台藩のお家騒動を鎮める為に旅に出る設定になっている。PR番組の中で”よろず屋の千太”を演じる三波豊和が水戸の西山荘、いわきの小名浜漁港、相馬の相馬中村神社、仙台の仙台城(青葉城)などを紹介していた。

 
仙台は私が今から〇〇年前に学生時代を過ごした懐かしい街、若き日の青春時代の思い出が詰まっている。その当時は高度成長時代に突入していたとは言えまだまだ豊かではない時代、地方から上京して大学に進むことを選べたのはごく一部の人に限られていた。私の場合も浪人などもっての外、現役かつ国立大学しか考える余地がない。私が進んだ高校は県内一の進学校で毎年T大学に多くの合格者を出していた。周りにもT大進学者が多く、中学生の頃には自分もT大へ行くと思い込み当然の如くT大を目指していた。今の様な予備校全盛時代ではなく、高校側もその指導に自信があり校内の実力テストで各々の進路を決める事ができた。幸いにも私は常に安全圏内に位置し、そのままT大に現役合格となる。

 今なら東北新幹線もあり自宅から通学もあるだろうが、当時は在来線急行で約1時間以上かかるので下宿は当たり前だった。首都圏で1時間の通勤・通学は当たり前だが、その当時地方では1時間と聞くとすごく遠く感じたことを覚えている。今ではすっかり立派になったがその頃の仙台駅はとてもみすぼらしく,、とても”北の玄関口”とは思えぬほどで評判が悪かった。当時T大の最初の2年間は仙台城址のすぐ下にある
川内キャンパスに通う。 ところが下宿が川内から遠く離れた長町というところにあり、バスで1時間でかかり大変だったことを覚えている。長町中学校バス停で降りて山の斜面を5分位上がったところにあり、4畳半1間2食付きで下宿代が約10000円也で全部で5人のT大生がいた。

 
当時の川内キャンパスは戦後アメリカ駐留軍が使っていた古い木造の校舎を使っていた。おそらく今はすっかり様変わりしていて昔の面影なんぞ全く残っていないだろう。授業と授業の合間に広い構内をあちらこちらと動きまわっていた。すぐ近くには理学部附属植物園があり何度も行っている。ある時定期試験が終わって植物園に出かけ広い芝生で寝転がって空を眺めていたら、よほど疲れていたのか安心したのかいつの間にか2時間ほど熟睡してしまった。

 川内キャンパスのバス停付近で学生4人がタクシーを止めて乗り込む姿をよく見た。何をしに行くのかは一目瞭然、
4人1組というのがミソ。これから東一番丁(仙台の中心街)まで行って”中国語”の勉強に励む。当時の学生の楽しみと言えば麻雀にパチンコ位しかない。当時の雀荘では学生は一人1時間100円位だった。かく言う私も麻雀にはまった一人、医学部の同級生相手に学生としては高いレートで彼らにはかなり貢いでもらった。当時は学生運動が盛んな頃で、大学2年の前期定期試験直前に活動家が大学封鎖し定期試験が延期になった。学生運動に無縁な私は何もすることがない。そんな連中が4人集まり雀荘が定休日以外毎日麻雀に明け暮れた。そんな日が1ヶ月ほど続くと、ついには寝床で目をつぶると麻雀牌が瞼の裏に浮かんでくる。さすがに「これはいかん」となり皆帰郷した。それを機にすっぱりと麻雀をやめた。何のことはない、単に麻雀のやり過ぎで飽きがきただけ。帰郷すると地元では競馬を開催していた。閑なので競馬を見に行き競馬に興味を持つ様になる。そして社会人になり金を稼ぐ様になってから熱心に競馬研究に励むことになる。

 
川内記念講堂・・・ここで入学式、卒業式がある・・・を抜けると仙台城址のすぐ傍に出る。そこから急な坂を上がると平らな広い青葉山公園が現われる。江戸時代には天守閣こそ無かったものの壮大な建築があったが、明治時代になり全て取り壊され今は何も残っていない。授業のない時には何度もここへ来ている。その時も昔の面影が何も無く寂しさを感じた記憶がある。仙台城は1602年伊達政宗が築いた伊達62万石の居城、標高120mの小高い山上にあり東と南を断崖に囲まれたあたかも天然の要塞にも見える堅固な城・・・私がいた当時は青葉山公園に伊達政宗像があるだけで何もなかったが、三の丸巽門(仙台市博物館裏手)、二の丸詰門(東北大学構内)、大手門(復興隅櫓の隣)の3つを復元する予定になっているそうだ。復元の暁には様変わりして風格があり見応えのあるものになっているのではないだろうか?欲を言えば築城当時を偲ばせる壮大な建築が再現できればとは思うが、現状ではおそらく難しいのではないだろうか?

 
仙台市内を一望に見下ろせる場所に伊達政宗像が建っている。もし伊達政宗が今の世に降り立ったらどんな感想を持つのだろうか?ここからの眺めは素晴らしく全て一望に見渡せる。だからこそ伊達政宗はここに築城した。近くに土井晩翠像と『荒城の月』の歌碑がある。最後に仙台を訪れたのは今から15年位前と思うが、その頃は高い建物は皆無だった。先日TVで伊達政宗像付近から仙台市内を放映していたが、高いビルがだいぶ増えていた。おそらく仙台の市内も更に様変わりしていると思う。

 ある時次の授業まで3時間以上も間があったので医学部の同級生と車で・・・当時は学生で車を持っているのはごく少数・・・仙台城址を抜けて
八木山動物公園方面へドライブした。すると途中の八木山橋にパトカーが停まっていて多くの人が下を覗いている。『
八木山橋』と聞いてピンと来る方もいるはず・・・。 今でこそ車が通れる立派なコンクリートの橋だが、何年前までかは知らないがわりと近年まで人通りのまばらな小さな吊り橋がかかっていた。眼下は深い谷、橋から下を覗くと吸い込まれる様な恐怖を覚えたと記憶している。八木山橋は竜ノ口渓谷にかかる高さ約60mの橋で、特にここから眺める秋の紅葉はまさに絶景と言える。ここはまた”知る人ぞ知る”全国的にも有名な自殺の名所で、過去に何人も谷底で飛び降りて命を絶っている。心霊スポットとしても超有名と聞く。この時もはるか下にうつ伏せになった人の姿があり、今でも脳裏に焼き付いて記憶に残っている。

 3年になり専門課程は東一番丁の南突当たりにある
片平丁キャンパスで受講することになる。当時片平丁には理学部、文学部、法学部、経済学部、教育学部があった。この頃は青葉山キャンパスへの移転が始まった頃で工学部はほとんどが山の上に移っていた。この頃下宿は長町から片平丁キャンパスの近く向山に移っていたここには6畳1間に同郷の同級生と2人で暮らし、下宿代は2食付きで約10000円と記憶している。正門を出て米ケ袋から霊屋下を通り広瀬川沿いの急な坂を上ってすぐの所に下宿はあった。今度は片平丁キャンパスまでは歩いて15分位なので以前に比べてはるかに楽になった。北門のすぐ傍に食堂があり、そこでカレーライスをよく食べた。たしか70円だったと思う。

 下宿の裏手から少し行くと史跡「
経ヶ峯伊達家墓所」がある。ここには伊達政宗公霊屋瑞鳳殿二代忠宗公霊屋感仙殿、三代綱宗公霊屋善応殿、妙雲界廟、御子様御廟がある。私は瑞鳳寺境内を通り霊屋下に抜けてよく通学していたが、当時は何もなく瑞鳳殿などの礎石が残っているだけだった瑞鳳殿は1931年に桃山様式の絢爛豪華な廟として国宝に指定されたが、1945年7月10日の戦災で3つの霊屋全てが消失してしまった。1970年NHKの大河ドラマで伊達藩のお家騒動をテーマとした「樅の木は残った(平幹二郎主演)」が放映され伊達家ブームになっていたと記憶している。当時伊達家所縁の史跡などを訪れる人が多くいたが、ここは何もなくひっそりと寂しくどれほどの人が訪れたのだろうか?その後1974年から1985年にかけて瑞鳳殿など三殿が引き続いて再建され、その絢爛豪華さは往時を偲ばせる今ではすっかり整備され見違える様になっていることだろう。私がいた当時は何もなく当然出入り自由だったが、現在は財団法人瑞鳳殿が管理していて有料になっている。全てを見ると40〜60分ほどかかるそうだ。残念ながら私はまだここを実際に訪れていない。瑞鳳殿のサイトの写真でしか見たことがない。実家から仙台は近いので、帰郷の折にはぜひとも行ってみたい。

 授業を受けていた校舎は正門入ってすぐ左手にあり、授業が終わって正門を出てまっすぐ下宿に帰れば15分ほどで着く。しかし当時は北門を出て東一番丁の方へ足が向くことが多かった。とは言っても金が充分にあるわけではなくただぶらぶらしているだけだったが・・・。パチンコはやらず、麻雀も既に引退していて何もやることがない。時々
名掛丁のアーケード街にある音楽喫茶・・・たしか東一番丁と仙台駅の中間あたりだったと思うが・・・には通っていた。ここはDJがいてリクエストを受け付けて曲を流しすシステムをとっていた。私も行く度にリクエストしていたが、どんな曲をリクエストしたかは全く覚えていない。弟の影響でサンタナとかレッド・ツェペッリンなどをよく聴いていたのでそのあたりだろうか?Coffee一杯・・・いくらだったかは覚えていないが・・・で少なくとも2,3時間粘っていたと思う。今でもあるのだろうか?

 北門を出て東一番丁をただひたすら北へ向い突当たりの定禅寺通りを右折すると
勾当台公園がある。近くには宮城県庁、仙台市役所、青葉区役所などがある。北門からどの位の距離かは覚えていないが、閑な時にはこの公園まで足を伸ばしたこともある。現在は花壇、広場、野外音楽堂、滝、売店、トイレなどが整備されて市民の憩いの場となっている。学生時代にこのあたりをぶらぶらした時はどんな風だったかは記憶が定かではない。

 日本三景の一つ『
松島』は仙台駅からJRに乗りすぐだが、学生時代には一度も行かなかった。あまりにも近すぎるとその様なもので、仙台を離れてから20年近く経過して子供を連れて松島を訪れた。小学6年の修学旅行でここを訪れているのでこの時が二度目となる。『天橋立』にも2度行ったことあるので、これで日本三景は『安芸の宮島』を残すのみとなった。『安芸の宮島』に一度は行ってみようと思っている。

 仙台時代に遠出したのは
平泉と山寺の僅か2回と少ない。平泉には下宿の同室の友人とM学院女子大の2人の計4人で行った。どの様な経緯で彼女達と一緒したのか全く覚えていない。1人は中学時代の同級生ということは覚えている。私が誘ったのではないのは確かだから、おそらく同室の友人がダンパで知り合って誘ったのではないかと思う。この時中尊寺では金色堂、本堂などを見てきたが、今ほどは整備されていなかったと記憶している。今年のNHKの大河ドラマは『義経』なので、奥州藤原氏所縁のこの寺を訪れる観光客が増えるだろう。

 この時もう1ヶ所
毛越寺を訪れている。毛越寺は奥州藤原氏二代基衡が造営した寺で、最盛期は中尊寺を凌ぐ壮麗さと規模を誇ったと言う。奥州藤原氏の滅亡後度重なる戦火に遭い全てを消失した。私が行った当時には大きな池がポツンとあるだけで特に何も見るべきものはなかったと記憶している。現在は大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がきちんと整備されている。更に1988年初代藤原清衡没後800年を記念して平安様式の本堂が建立された。この寺も中尊寺同様私が行った時とはすっかり様変わりしているはず・・・機会があれば訪れてみたい。

 
山寺には同郷の友人が仙台に来た時JR仙山線で訪れた。どこかへ行こうと言うことになり、季節も良かったのか山寺にした。何月だったかは覚えていないがたしか休日で大勢の観光客がいたと記憶している。この時に行けた所でも現在は何ヶ所かは危険防止の為立ち入り禁止になっている。一昨年の11月に久しぶりにここを訪れたが、駅舎や街並みはもっと鄙びた感じだった様に思う。しかしながらこれもまたあまりにも昔のことなので記憶が定かではない。

 この様に仙台時代をつらつらと書き綴ってみると記憶が定かでない部分が多いのには驚いた。それだけ私が仙台で学生時代を過ごしたのははるか昔と言う事・・・夢の世界の出来事の様にも思える。
”光陰矢の如し”とはよく言ったもの・・・これからの人生を大事にしなければと改めて心に誓った。
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