第55段 * 追悼 加藤正夫九段 ‐ その早すぎる逝去 ‐ *
2004年12月30日加藤正夫日本棋院理事長(九段)が脳梗塞及び合併症のため逝去された。ご冥福を祈る。享年57歳、あまりの突然の訃報に驚いている。12月初めに脳血管障害で入院/手術との報でもしやとは心配していた。手術は成功し安静加療中とのことだったが・・・。昨年春日本棋院の運営を巡って揉め事があり、当時の理事長が辞任しその後を継いで昨年6月理事長に就任した。現役棋士としても対局を継続していた。日本棋院理事長と棋士の2足のわらじで心労も多かったと思う。
私の手元には1983年(昭和58年)に取得したアマ六段の免状がある。免状には7人の署名があり、その中に加藤正夫十段の署名がある。この免状には今は亡き高川秀格名誉本因坊、藤澤朋斎九段、長谷川亨名誉八段などの懐かしい名がある。この免状を手にした時、”殺し屋”と言われた加藤九段らしい実に豪快な筆使いで感激した。この免状は私の大切な宝物・・・この署名を見れば加藤九段の顔を間違いなく思い出す。
加藤九段は1947年福岡に生まれ、1959年木谷実九段に入門している。同門には趙治勲25世本因坊、大竹英雄名誉碁聖、石田芳夫九段、武宮正樹九段、小林光一九段など蒼々たるメンバーが名を連ねている。その様な素晴らしい環境で腕を磨き、1964年に入段、1978年に九段になっている。若い頃から既に才能を発揮し、1967年には20歳の若さで第23期本因坊リーグ入りを果たしている。1969年には第24期本因坊挑戦者、1970年第7期朝日プロ十傑戦準優勝、更にその後第2期第一位、第21期NHK杯、第21期日本棋院選手権などタイトル戦で通算8回準優勝ともう一歩タイトルには惜しいところで手が届かなかった。
しかしながら1976年第1期碁聖戦で大竹英雄名人を破り初タイトルを獲得、更に同年第14期十段位を獲得するとそれまでの鬱憤をはらす様に次々とタイトルを獲得していった。翌年第32期本因坊戦で武宮本因坊を4勝1敗で降し本因坊位を奪取、本因坊剣正と号した。1979年には本因坊、十段、天元、王座、鶴聖の5つのタイトルを保持した。その後も活躍は続き、名人位獲得、王座戦8連覇(名誉王座)など華々しい戦績を残している。1983年の第21期十段戦では趙十段に対して3勝2敗でタイトルを奪取している。その時の3勝が何と全て半目勝ち、計1目半でタイトルを獲得した。”1目半で十段をとった男”として有名になったことをはっきりと記憶している。豪腕だけでなく緻密さも兼ね備えていたことを示している。
若手の台頭でタイトルの獲得は徐々に減っていった。しばらく無冠だったが、2002年第57期本因坊戦に挑戦者として登場した。当時の王銘エン本因坊を4勝2敗で降しタイトル奪取に成功した。この時50歳代初の本因坊、23期ぶりの復位で大いに話題になった。翌年残念ながら今を時めく張栩八段(現名人・本因坊・王座)に破れタイトル防衛はならなかったが、その若々しい打ちっぷりにはまだまだ若い者には負けぬと言う気概が溢れていた。まだ老け込む年ではなくもっと頑張れたと思うだけに残念でならない。
1月30日NHK教育TVで杯放映予定だった加藤vs張名人・本因坊戦は突然の出来事で中止となった。当日は予定を変更して『特集 囲碁の時間 攻めの加藤・ヨセの加藤 〜加藤正夫名誉王座の棋歴〜』が放映される。ゲストとして大竹名誉碁聖、武宮正樹九段、石田芳夫九段、趙25世本因坊が出演する。必ずこの番組を視聴して今は亡き加藤九段の在りし日を偲びたい。
若い頃は”殺し屋”加藤と言われた豪腕の持ち主、そのスカッとした切れ味にはほれぼれとさせられた。プロはなかなか本気で相手の石を取りにはいかないのが相場とされていた・・・が加藤九段は一味も二味も違った。可能性があると見れば本気で相手の石を殺しに行く。その気風の良さに虜になったファンも多いはず・・・。この様なタイプの棋士は今後なかなか出現しないのではないだろうか?
歴代棋士、現役棋士の中でも加藤九段の実績は特筆されるべきであろう。本因坊通算4期、名人通算2期、十段通算7期、通算王座通算11期、天元通算4期、碁聖通算3期などタイトル獲得・棋戦優勝は47回を数え、その実績はまさしく超一流の証なのだ。困難な時期にある日本棋院の経営にもその一流の技を発揮できたと思われる。周囲の反対を押し切って大手合制度の廃止(昇段制度の改定)、大コミの導入(5目半→6目半)を断行してきた。まだまだ日本棋院には問題が山積している。日本棋院は惜しい人材を失った。志半ばにも行かずこの世を去ったのはさぞや無念であったろう。
合掌。加藤九段の魂よ、安らかなれ。