第46段 * ハンガリーの歴史 ‐その1‐ *
2002年9月ハンガリーのブダペストとヘレンドを訪れているが、その時良い印象を持ち次回はぜひともゆっくりと巡りたいと考えている。あるツアーで10日間でハンガリーを一周するコースがあり、来年以降必ず行くと心に決めている。ここではハンガリーの波乱に満ちた歴史を紐解いてみることにする。
ハンガリーはどの様な国なのであろうか?北緯45〜48度、東経16〜23度の中央ヨーロッパの東に位置し、南北26Km、東西526Km、総面積約9万3000Km2(日本の約1/4)、人口約1000万人を有する。アルプス、カルパチア、ディナル・アルプスの各山脈に囲まれたカルパチア盆地に位置し、東部には約4万5000Km2のハンガリー大平原が広がっている。2つの大きな川、ドナウ河(ハンガリー国内を417Kmにわたって流れている)とテイサ川(598Km)は北から南へ縦断して流れていて大地を潤している。
現在のハンガリー人(マジャール民族)がこの地にたどり着いたのは9世紀末のこと。ではそれ以前はどうだったのであろうか?この地に人類が出現したのは今を遡ること約50万年前、中央部で旧石器時代の人骨が発見された。更に時代が下り約13万年前〜3万年前にかけて、それまでにはない新しい石器を使用したネアンデルタール人が出現する。 紀元前6世紀にはイラン系騎馬遊牧民族、紀元前4世紀にはケルト人がこの地に出現した。ケルト人は西暦2世紀頃に勢力拡大中のローマ帝国と初めて争っている。 約2世紀に及ぶ戦いによりローマ帝国はドナウ河西岸地域を、更にエルデーイ盆地の大部分を征服した。東部の大平原地域にはイラン系遊牧諸民族、その北方地域にはゲルマン系諸部族が住んでいた。
2世紀末には民族大移動の波がローマ帝国のこの辺境の地にも及び、徐々に勢力を衰退しついには5世紀半ばにはこの地を放棄するに至った。カルパチア盆地ではゲルマン系諸部族(ゴート族、ゲピテ族、ランゴパルド族)とトルコ系諸部族(フン族、アヴァル族)が入れ代わりに支配している。4世紀にはアッティラのフン族、6世紀にはアヴァル族がこの地を支配・・・フン族の帝国は短期間で崩壊したが、アヴァル族はカルパチア盆地全域を支配した。しかしながらアヴァル王朝は8世紀末にはフランク王国に攻められほとんど無力化した。この頃には全体を統括して治められる様な強力な部族は存在せず、山岳地域の麓(主に北部地方)にはスラブ系民族が、また平原地帯にはアヴァル族とゲピデ族の小規模な部族が細々と暮らしていた。
9世紀末になるとマジャール民族がこの地に移住してくる。それまでマジャール族はどの様な道を歩んできたのだろうか?マジャール族はもともとロシア中部で遊牧生活をしていた騎馬遊牧民で、モンゴル族、女真族、トルコ族などを含む東洋系のウラル=アルタイ語族に属している。マジャール族は当初カスピ海に注ぐヴォルガ川の上・中流流域の「マグナ・フンガリア(大ハンガリー)」と呼ばれる所に住んでいた。7世紀になるとオノグル・ブルガール族が黒海とカスピ海の北岸周辺を治める帝国の支配下に入る。ちなみにブルガール族はブルガリア人の祖先で、西方に移動した一部のブルガール族が現在のブルガリアに移り住み先住民のスラヴ族に同化して現在に至っている。また「オノグル」は部族名で、”10本の矢”を意味する。このオノグルという名称がなまって「マジャール」となり、マジャール民族を指す名称になったと言われている。その後ハザール族がオノグル・ブルガール帝国を滅ぼし、新たにハザール汗国を建国する。8世紀頃からドン河中・下流付近に住んでいたマジャール民族は、必然的に南に境を接するハザール汗国に組み込まれることになる。
9世紀初頭にハザール汗国が衰退し、その結果帝国内での力関係が逆転しマジャール族が勢力を増した。危機感を抱いたハザール汗国は支配地域内の他部族にマジャール族を攻撃させた。その結果マジャール族の多くは889年までにヴォルガ川流域から黒海北岸に移ることになる。9世紀後半に黒海北岸に移ってから、マジャール族は隣りのバルカン半島、特に中部ドナウ流域に関する政争に巻き込まれる。当時のヨーロッパ東部にはマジャール族の西には大モラヴィア国、北東にはキエフ公国、東方にはマジャール族をバザール汗国から追い出したペチェネーグ族、南にはブルガリア帝国、更にバルカン半島南部にビザンツ帝国が、ハンガリー盆地にはアヴァル族の残存勢力とスラヴ人の諸部族、バルカン半島の西にクロアチア王国とセルビア諸侯国・・・。 当時東欧最大の国家大モラヴィア国は東フランク王国と対立しており、マジャール族は892年東フランク王国と同盟を結び大モラヴィア国と戦ったこともある。 こうして見ると20世紀初め第一次世界大戦前にバルカン半島が”世界の火薬庫”と言われた状況に酷似している。即ちバルカン半島、黒海周辺の様々な対立の図式ははるか1000年以上前から存在し、その怨念は21世紀の現在に至っても依然として消えていないと言えるのではないか?
895年マジャール族はビザンツ帝国と同盟を結び、マジャール族とビザンツ帝国の間にあったブルガリア帝国と戦う事になる。この頃のマジャール族指導者は最高首長位「ケンデ」のクルサーンと序列第二位の大首長「ジュラ」のアルパード。ブルガリア遠征は”同盟国”ビザンツ帝国の裏切りによりマジャール族は大敗北。しかもトルコ系民族の一つペシェニョー族が黒海北岸の本拠地・エテルケズを背後から攻撃した為に、マジャール族は更に西へと移動せざるをえない状況に追い込まれる。この様な経緯でマジャール族は896年にカルパチア盆地に到達する。ここからハンガリーは896年を建国の年としている。国会議事堂のドームの高さ、イシュトヴァーン教会のドームの高さが96mなのは建国の年896年からきている。この他にもブダペスト市内には英雄広場、漁夫の砦など建国の年にちなんだモニュメントがある。
アヴァル族は8世紀末にフランク王国に攻められ弱体化し既に力なく、またスラヴ人の少数部族はハンガリー平原を支配するほどの勢力ではなかった。10世紀初頭には東フランク王国は内紛で余力無し、南スラヴ系諸族には強力な国家無し、更にブルガリアはビザンツ帝国との抗争で余力無し・・・。マジャール族にとり抵抗勢力が無いということが幸いし、何の苦労もなくこの地を手に入れることができた。マジャール人はこの地を足がかりとして勢力拡大を図る。バルカン半島を制圧し、その矛先は東フランク王国、イタリアや遠くフランス、スペインにも向けられた。ところが904年最高首長「ケンデ」位のクルサーンがバイエルンの領主の策略により暗殺される。最高権力者が不在となったマジャール族は大混乱に陥るが、序列第2位の大首長「ジュラ」位のアールパードがクルサーン一族を下し権力を掌中に収める。しかしながらアールバードは大モラヴィア国を滅ぼした翌年の907年にこの世を去る。
アールバードの死後、息子のジョルトルトがその権力を継承した。ジョルトルトは933年ドイツのハインリッヒT世にリアデの戦いで敗れる。ハインリッヒT世は軍事・外交面に優れた手腕を発揮し、マジャール族は多くの敗北を喫した。947年ジョルトの死後息子のタクショニュがその権力を継承する。実際に周辺地域への遠征を統率したのはマジャール族の序列第2位「ホルカ」位のブルツ。これらの半世紀にも及ぶマジャール族の遠征はアラブ人及びノルマン人による侵略と共に、ヨーロッパ全域を恐怖と混乱に陥れた。ブルツは955年アウグスブルグの闘いにおいてドイツ王オットーT世に敗れ処刑される。ちなみにオットーT世はこの勝利などにより、962年ローマ教皇より皇帝としての戴冠を受ける。(これが神聖ローマ帝国の始まりとされる。)
一方976年ビザンツ帝国皇帝にバシレイオスU世が就くと、一挙に形勢は傾きマジャール族との攻守逆転、またドイツは更に強大化しマジャール族は攻め込むところではなくなった。かくしてマジャール族はその動きを封じ込まれることになる。そこでマジャール族は政策を180度転換し、外国との協調、国内の支配基盤の確立に全力を注ぐ様になる。
970年アールバードの曾孫にあたる大首長ゲーザが父タクショニュからその権力を継承する。当時国内には独立した勢力をもつ部族長や氏族長が群立していたが、ゲーザは彼らの権力を土地の収奪という手段で葬り去った。それに(後にハプスブルク家の勢力拡大の為の有力な手段となった)政略結婚により諸外国との友好関係を強化し権力基盤を確固たるものにしていった。ゲーザ自身はポーランド王のミェシュコT世の姉妹であるアデルハイドを2人目の妻とした。3人の娘にはそれぞれポーランド、ブルガリア、ヴェネチアの王家へ嫁がせ、息子のヴァイク(後のイシュトヴァーン)にはバイエルン公ハインリッヒU世の娘ギゼラと結婚させた。またゲーザはマジャール族の将来の為にはキリスト教への改宗が不可欠と判断した。そこで息子ヴァイクにキリスト教の洗礼を受けさせイシュトヴァーンと称した。キリスト教を国内統治の手段として有効活用したのである。
997年ゲーザの死後ヴァイクは大首長を継承、ローマ教皇から王冠を授かり1000年に初代ハンガリー国王イシュトヴァーンT世として戴冠した。(ハンガリーでは1896年に建国1000年記念祭を行なっているが、2000年もやはり建国1000年として祝っている。)イシュトヴァーンT世に始まるハンガリー王家の時代については次の章で触れることにする。